「ヒッグス粒子の発見:イアン・サンプル」理論的予測と探求の全記録
内容
はじまりは、6人の物理学者による3編の論文だった。「質量の起源」を明らかにする標準理論の最後の1ピース=「ヒッグス粒子」は、いかに予測され、探索されてきたのか?自らの名を冠されたヒッグスの苦悩、巨大加速器の予算獲得をめぐる争い、ライバルを出し抜こうと奔走する者たちの焦りと妬み、人類史上最大の実験装置を作り上げた科学者たちの苦闘と栄光…。英国最優秀科学ジャーナリストが活写する半世紀におよぶ群像劇のすべて。
著者略歴
イアン・サンプル
英国紙「ガーディアン」の科学担当記者。2005年、英国サイエンスライター協会(ABSW)による年間最優秀調査ジャーナリストに選出。ロンドン大学クイーン・メアリーで生物医学の博士号を取得。英国物理学会発行の学術誌の編集に携わった経験ももつ。オックスフォードシャー州出身、ロンドン在住
翻訳者略歴
上原昌子
翻訳家。群馬大学教育学部(理科専攻)卒業
理数系書籍のレビュー記事は本書で232冊目。
今年のノーベル物理学賞の発表は先週の火曜日だったが、僕はたまたまその2日前の日曜日に本書を購入していた。予感がしていたのではなく本当に「たまたま」だった。そして物理学賞の発表を見て、急遽この3連休を使って読むことにした。ブルーバックスでは珍しく517ページもある。(正味は471ページ)
ヒッグス粒子の予言から発見までの全記録。壮大な科学史ドキュメンタリーで文系、理系問わずお勧めできる本だった。著者は英国紙「ガーディアン」の優秀な科学ジャーナリストだ。
翻訳の元になった英語版は2011年に刊行され、2012年7月のCERNにおける発見報告会以後に本書(日本語版)の最終章にこの報告会前後の詳細が書き加えられた。
理数系書籍の読書でドキドキ、ワクワクしたことはこれまでに何度もあったが、胸が詰まり目頭が熱くなったのは僕にとって初めてのことだった。
長年に渡って何千人もの物理学者やアメリカ、ヨーロッパの加速器施設関係者や政治家や公的機関の担当者にインタービューを続けて得られた膨大な記録をもとに、著者が言うところでは「ほんの一部」を紹介する形で本書が完成したのだという。それでいてこのページ数なのには驚かされる。
まさに長編ドキュメンタリー小説で、描写はあきれてしまうほど細かい。それが読む者にはリアルな現実としてストレートに伝わってくるのだ。例えばCERNでの報告会の後、エディンバラへ戻るヒッグス博士が使った飛行機が格安であったこと、ヒッグス博士の部屋の光景などその場にいた者しか書けないことがその空間にいるヒッグス博士を感じさせてくれる。(アングレール博士、ブラウト博士など同様の論文を書いた先生方のことも詳述されている。)
本書には書かれていないことだが、ノーベル物理学賞発表が1時間遅れたのは博士と連絡がとれなかったことが原因だった。結局、3日後に博士の記者会見が行なわれたわけだが、本書を読むと博士の心情がよく理解でき、どうしてそのようなことになったのかがよくわかった。
48年前に提出したたった79行の論文を端緒に、その後の博士は実にさまざまな「扱い」を受けることになる。「そんな粒子は存在しない!」という侮蔑を受けていたことは有名だが、その他にもいろいろあったのだ。詳細は書かないので本書を読んでほしい。その結果、博士は携帯電話を持たない生活をするようになった。
欧米で繰り広げられるヒッグス粒子検出のための加速器建設競争も、僕にとっては知らないことばかりだった。莫大な費用のかかるこのような設備を計画し、予算を政府や議員、国民に説得するのは並大抵のことではない。まして見つかるかどうかわからない粒子である。見つかったとしても、国家や国民生活には直接的な利益をもたらさない実験に対しての予算なのだ。LHC成功の裏には、大きな計画が中止され、多くの研究者のキャリアが損なわれていた。
ヒッグス博士が心を痛めていたのもまさにこの点である。自分の論文がきっかけで、このような巨大プロジェクトが始まってしまい、非常に多くの人たちの人生を左右することになってしまったことに対する戸惑いだ。博士ご自身はヒッグス粒子の存在を信じ続けていたが、それが見つかるのかどうかはまったく確信が持てないことだったので、最終的な結論が出るまで博士のストレスは続いていた。
結局ヒッグス粒子は見つかったのだが、この成果は今後の物理学の発展にとってベストなことだったのだろうか?発見される前、可能性としては4つあった。
1) ヒッグス粒子が存在しないことが確認される。
2) ヒッグス粒子は見つからず、そして存在を否定することもできない。さらなる探索が次世代加速器に委ねられる。
3) ヒッグス粒子が当初の予測されていた粒子として発見される。(今回の成果)
4) ヒッグス粒子は5種類あると予想されている。当初予想されていたのではない別のヒッグス粒子が発見される。
物理学の発展にとってどれが好都合かについては、ヒッグス粒子が発見される前に本書の中でワインバーグ博士が解説されていたことだ。ぜひご自分で順番に並べてみてほしい。答は本書の中にある。
「神の粒子」という表現について
「神の粒子」という呼び方についても、本書を読んで僕にはその背景や歴史的な経緯がよく理解できた。この言葉はもともとある物理学者がなかなか見つからないヒッグス粒子に対して「いまいましい粒子(Goddamn Particle)」と書いたのが始まりで、その記事を受け取った編集者が勝手に「神の粒子(God Particle)」と書き換えてしまったことによる。
さらに「そんな神の粒子のようなものは見つかるはずがない。」という侮蔑的な文脈で使われることもあり、また巨大加速器の予算承認の必要性を政治家や国民にアピールするために「この実験が成功すれば神の粒子の発見に値する成果が得られる。」のように使われたこともあった。
またヒッグス博士は「神の粒子」と表現されることによって宗教的な勢力の反感を買い、博士ご自身や関係者が(暗殺も含めた)攻撃の対象になるのではないかと危惧していたので、この表現に不快感を持っていた。
メディアの報道がいいかげんなことや「巨大加速器で生じるミニブラックホールによって地球はおろか、宇宙全体が破壊される可能性もゼロではない。」などという報道に世論が振り回されたりすることは古今東西似たようなものだ。実際、LHCはそのような抵抗にも苦慮していたのだ。
NHKを始めとする日本の報道機関や科学番組が「神の〜」を引用するとき、特に詳しく補足解説しない限りその意味合いは定かではない。しかし、一般的に視聴者が受け取るのは、おそらく「神聖で、人智を超えた存在の証」という印象である。もちろん物理学者は誰もヒッグス粒子がそのような粒子だとは考えていない。
本書の科学的な記述の正確さについて
最後に本書の科学的な記述の正確さについて述べておこう。
十分な下調べや科学者からの説明を著者は受けているだけあって、科学的にかなり正確な文章だった。どこかの新聞のようにヒッグス粒子は「物質の質量の起源を明らかにした。」とは表現せず、ちゃんと「素粒子の質量の起源を明らかにした。」と書かれていたし、それによって説明がつくのは「質量の起源のうち1パーセントにすぎない。」こと、残りの99パーセントは原子核内部の「強い力」のエネルギーであること、エネルギーと質量の等価交換によりそれが「質量」とみなされることなどが正しく解説されていた。
それでもヒッグス機構による質量獲得のしくみの説明は間違っていた。本書では「雪原を歩く人の雪靴が抵抗を受ける形」での説明がされていた。イメージ的に降り積もる雪はヒッグス場に似ているが、質量獲得の説明としては「水飴方式」と大差なく、正しい説明とはいえない。
あと、本書を読んだからといって一般読者(非理数系の読者)が標準理論や個々の素粒子のことを詳しく理解できるようになるわけではない。それは本書が物理学自体の「解説」に重心を置いたものではないからだ。本書は科学ドキュメンタリー作品として楽しみながら、実際に起きていた事実を知るための本である。
読み進むにつれて感動がじわじわとこみ上げてくる。特に最終章に書かれている人間ドラマは圧巻だ。7月4日の報告会は僕もライブでネット中継を見たが、その2ヶ月前からその瞬間までのピリピリした緊迫感は、まさにそれが現実のものだったからこそ胸に迫ってきたのだと思う。あの日の感動をもう一度思い出したい方はこの記事の一番下に挿入した動画をご覧になるとよい。
本書はぜひ多くの方、特に今年のノーベル物理学賞の意義や背景を詳しく知りたい方にお読みいただきたい。
翻訳の元になった英語版
本書の翻訳の元になったのはこの英語版だ。
「Massive: The Hunt for the God Particle: Ian Sample」2011年3月刊行
けれども、その後2012年7月4日のヒッグス粒子発見の報告後、改訂された英語版が刊行されている。英語でお読みになる方は、改訂版(Updated Edition)をお買い求めいただきたい。
「Massive: The Higgs Boson and the Greatest Hunt in Science: Updated Edition: Ian Sample」2013年2月刊行
関連記事:
祝!:ヒッグス粒子発見
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/f88350541542f732fec74af583a29e50
速報:2013年ノーベル物理学賞はヒッグス博士とアングレール博士に決定!
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e4c4d6d15d52e86a94caccd6da8edb5e
解説:NHKスペシャル「神の数式」第1回:この世は何からできているのか
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/5f0430e3fed08f6947d5efbe9559fbbd
強い力と弱い力-ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く:大栗博司
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/06c3fdc3ed4e0908c75e3d7f20dd7177
「標準模型」の宇宙:ブルース・シューム
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/25297abb5d996b0c1e90b623a475d1aa
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「ヒッグス粒子の発見:イアン・サンプル」
プロローグ
- すべては「場の目覚め」から始まった
- 「神の粒子」を蔑視した科学者たち
第1章:プリンストンへ――その遥かなる道のり
- 「質量」に思いをめぐらせた男たち
- 物質の究極を求めて
- 標準理論の最後のピース
- ヒッグス場に手なずけられた素粒子たち
- ヒッグスに届いた招待状
- 「君は勘違いしたんだ」
- ヒッグスの得た確信
- ヒッグスの理論が開いた扉
第2章:原爆の影
- ニュースと宣伝
- メディア革命の最中に生まれて
- 光を見出した方程式−マックスウェルの登場
- 科学者に明日は予見できない
- 物理学に恋をした男−マックス・プランク
- マックスェルからプランク、アインシュタインへ
- 北海の孤島で思索したハイゼンベルク
- アルプスのロッジで情婦と過ごしたシュレーディンガー
- 量子力学と相対性理論を融合させたディラック
- ディラックに魅了されたヒッグス
- 大戦下の物理学者たち
- フェルミが到達した“新大陸”
- ハイゼンベルクが犯した計算ミス
- ダイソンの告白
第3章:79行の論文
- ヒッグスの挑発
- 不器用だったピーター
- ファインマン登場
- “物理学者の宝石”
- 恩師の誤解で化学の道に
- 南部陽一郎の論文と出会って
- 「対称性の破れ」に注目せよ
- 自発的対称性の破れ
- 南部理論に取り組んだ第三のグループ
- CERNに送った論文
- 7週間早く掲載された論文
- 「偉大な物理学者になる」とはどういうことか
第4章:名誉を分け合うべき男たち
- 真空に隠された「ヒッグス場」
- 立ちはだかった難題
- ワインバーグ−マックスウェル以来の偉業を成し遂げた男
- 数式と曲線で埋め尽くされた黒板
- 千載一遇のチャンスを逃したヒッグス
- 「発散」問題ふたたび
- “街娼の館”で研究したユトレヒトの師弟
- カエルの王子さま
- 追い詰められたヒッグス
- 「ヒッグス機構」の名をめぐって
第5章:電弱理論の確証を求めて
- 加速器の登場
- 宇宙開発競争に比肩する加速器開発
- ヨーロッパの焦りが生んだ「CERN」
- 国防への貢献を問われて
- とらえられた飛跡
- 大西洋を挟んだつばぜり合い
- 中性カレントが「生命の誕生」に及ぼした影響
- 「強い力」をふりほどけ
- フェルミ研を見限ったルビア
- CERNの地下に生まれたゴリアテとダビデ
- 「ロープに水を!」
- 「これは本物だ」
- CERN内部の争い
- W粒子の発見
- ヒッグス粒子はどうふるまうのか
- 「切なるリベンジ」を
第6章:野望と挫折
- 「敵陣深く投げろ」
- 出典を探せ
- 政治的難局を乗り越えて
- LHCへの射程
- SSC計画の萌芽
- SSC計画への非難
- ワインバーグの見解
- 全米25州が誘致
- ブッシュ-宮沢階段の裏で−頓挫したSSC
- SSCの死を看取って誕生した“神の粒子”
第7章:加速器が放った閃光
- 加速器を知り尽くした男
- LEPはなぜ地下に設置されたのか
- 国境を4度もまたぐトンネル
- LEPの始動−月の満ち欠けにも影響を受けて
- 「君はヒッグス粒子を見つけたのかね?」
- 絶世の美女の歩みを止めるヒッグス粒子
- 重くなったマギー
- モノポール−とてつもなく重い“アメーバ”
- 追い詰められたLEP
第8章:「世界の終焉」論争
- 素粒子物理学界を揺るがした2通の投書
- 地球を破壊するビッグバン・マシーン
- 疑念が疑念を生んで
- 連結された加速器と爆弾魔“ユナボマー”
- ストレンジレットの脅威
- 「真空崩壊」という悪夢
- 「私たちの真空」の正体
- ガイガーカウンターを振りかざす抗議者
- 「5000万回に1回」のリスク
- 加速器と自然界は「同じ実験」をしているのか
- 「起こりうる損害に上限はない」
第9章:“幻影”に翻弄された男たち
- 「ヒッグス粒子は飛ばない」
- 予備装置なしでのフル稼働
- ヒッグス粒子の影
- 「5σ」の壁
- ホーキング対ヒッグス−相容れない主張
- ヒッグス粒子に指先を触れて
- CERN所長の翻意
- 大西洋を渡った100ドルの小切手
- ヒッグス粒子の存在を否定された科学者たち
第10章:「発見」前夜
- 「対称性の破れ」に迎えられて
- 「何なんだこれは?」
- 海の向こうに送られた指令
- 超対称性理論が描き出す世界
- Webが科学を変容させる
- 「怪物の捜索は続く」
- 「チャンスはあるっていうことだよね?」
- 標的を定めたATLAS
- 再始動への高いハードル
- 「神はヒッグス粒子を嫌っている」
第11章:「隠された世界」
- 「兆候」と「発見」
- 「標準理論のヒッグス粒子」は歓迎されず
- フェルトマンの懐疑
- 「役に立たない電子に乾杯」
- 4度めの科学革命を
- ヒッグスから届いた手紙
最終章:「新しい粒子」に導かれて
- 歴戦の強者たちが一堂に会して
- ピーター・ヒッグスへの伝言
- 神経を苛立たせるような事件
- ヒッグス粒子の存在しない場所に注目せよ
- 「ZZ」チャンネル
- シシリー島のヒッグス
- ウェブに漏洩した動画
- 「発見」と「観測」
- 「発見したのです」
- “彼ら”の賛辞
- 明日への扉を開くのか
- エディンバラの雨
謝辞
参考文献
巻末解説
事項索引
人名索引
関連動画:
2012年7月4日のプレスカンファレンス
ヒッグス粒子発見についてのセミナーと講義(必見!)
ヒッグス博士によるアナウンスメント
内容
はじまりは、6人の物理学者による3編の論文だった。「質量の起源」を明らかにする標準理論の最後の1ピース=「ヒッグス粒子」は、いかに予測され、探索されてきたのか?自らの名を冠されたヒッグスの苦悩、巨大加速器の予算獲得をめぐる争い、ライバルを出し抜こうと奔走する者たちの焦りと妬み、人類史上最大の実験装置を作り上げた科学者たちの苦闘と栄光…。英国最優秀科学ジャーナリストが活写する半世紀におよぶ群像劇のすべて。
著者略歴
イアン・サンプル
英国紙「ガーディアン」の科学担当記者。2005年、英国サイエンスライター協会(ABSW)による年間最優秀調査ジャーナリストに選出。ロンドン大学クイーン・メアリーで生物医学の博士号を取得。英国物理学会発行の学術誌の編集に携わった経験ももつ。オックスフォードシャー州出身、ロンドン在住
翻訳者略歴
上原昌子
翻訳家。群馬大学教育学部(理科専攻)卒業
理数系書籍のレビュー記事は本書で232冊目。
今年のノーベル物理学賞の発表は先週の火曜日だったが、僕はたまたまその2日前の日曜日に本書を購入していた。予感がしていたのではなく本当に「たまたま」だった。そして物理学賞の発表を見て、急遽この3連休を使って読むことにした。ブルーバックスでは珍しく517ページもある。(正味は471ページ)
ヒッグス粒子の予言から発見までの全記録。壮大な科学史ドキュメンタリーで文系、理系問わずお勧めできる本だった。著者は英国紙「ガーディアン」の優秀な科学ジャーナリストだ。
翻訳の元になった英語版は2011年に刊行され、2012年7月のCERNにおける発見報告会以後に本書(日本語版)の最終章にこの報告会前後の詳細が書き加えられた。
理数系書籍の読書でドキドキ、ワクワクしたことはこれまでに何度もあったが、胸が詰まり目頭が熱くなったのは僕にとって初めてのことだった。
長年に渡って何千人もの物理学者やアメリカ、ヨーロッパの加速器施設関係者や政治家や公的機関の担当者にインタービューを続けて得られた膨大な記録をもとに、著者が言うところでは「ほんの一部」を紹介する形で本書が完成したのだという。それでいてこのページ数なのには驚かされる。
まさに長編ドキュメンタリー小説で、描写はあきれてしまうほど細かい。それが読む者にはリアルな現実としてストレートに伝わってくるのだ。例えばCERNでの報告会の後、エディンバラへ戻るヒッグス博士が使った飛行機が格安であったこと、ヒッグス博士の部屋の光景などその場にいた者しか書けないことがその空間にいるヒッグス博士を感じさせてくれる。(アングレール博士、ブラウト博士など同様の論文を書いた先生方のことも詳述されている。)
本書には書かれていないことだが、ノーベル物理学賞発表が1時間遅れたのは博士と連絡がとれなかったことが原因だった。結局、3日後に博士の記者会見が行なわれたわけだが、本書を読むと博士の心情がよく理解でき、どうしてそのようなことになったのかがよくわかった。
48年前に提出したたった79行の論文を端緒に、その後の博士は実にさまざまな「扱い」を受けることになる。「そんな粒子は存在しない!」という侮蔑を受けていたことは有名だが、その他にもいろいろあったのだ。詳細は書かないので本書を読んでほしい。その結果、博士は携帯電話を持たない生活をするようになった。
欧米で繰り広げられるヒッグス粒子検出のための加速器建設競争も、僕にとっては知らないことばかりだった。莫大な費用のかかるこのような設備を計画し、予算を政府や議員、国民に説得するのは並大抵のことではない。まして見つかるかどうかわからない粒子である。見つかったとしても、国家や国民生活には直接的な利益をもたらさない実験に対しての予算なのだ。LHC成功の裏には、大きな計画が中止され、多くの研究者のキャリアが損なわれていた。
ヒッグス博士が心を痛めていたのもまさにこの点である。自分の論文がきっかけで、このような巨大プロジェクトが始まってしまい、非常に多くの人たちの人生を左右することになってしまったことに対する戸惑いだ。博士ご自身はヒッグス粒子の存在を信じ続けていたが、それが見つかるのかどうかはまったく確信が持てないことだったので、最終的な結論が出るまで博士のストレスは続いていた。
結局ヒッグス粒子は見つかったのだが、この成果は今後の物理学の発展にとってベストなことだったのだろうか?発見される前、可能性としては4つあった。
1) ヒッグス粒子が存在しないことが確認される。
2) ヒッグス粒子は見つからず、そして存在を否定することもできない。さらなる探索が次世代加速器に委ねられる。
3) ヒッグス粒子が当初の予測されていた粒子として発見される。(今回の成果)
4) ヒッグス粒子は5種類あると予想されている。当初予想されていたのではない別のヒッグス粒子が発見される。
物理学の発展にとってどれが好都合かについては、ヒッグス粒子が発見される前に本書の中でワインバーグ博士が解説されていたことだ。ぜひご自分で順番に並べてみてほしい。答は本書の中にある。
「神の粒子」という表現について
「神の粒子」という呼び方についても、本書を読んで僕にはその背景や歴史的な経緯がよく理解できた。この言葉はもともとある物理学者がなかなか見つからないヒッグス粒子に対して「いまいましい粒子(Goddamn Particle)」と書いたのが始まりで、その記事を受け取った編集者が勝手に「神の粒子(God Particle)」と書き換えてしまったことによる。
さらに「そんな神の粒子のようなものは見つかるはずがない。」という侮蔑的な文脈で使われることもあり、また巨大加速器の予算承認の必要性を政治家や国民にアピールするために「この実験が成功すれば神の粒子の発見に値する成果が得られる。」のように使われたこともあった。
またヒッグス博士は「神の粒子」と表現されることによって宗教的な勢力の反感を買い、博士ご自身や関係者が(暗殺も含めた)攻撃の対象になるのではないかと危惧していたので、この表現に不快感を持っていた。
メディアの報道がいいかげんなことや「巨大加速器で生じるミニブラックホールによって地球はおろか、宇宙全体が破壊される可能性もゼロではない。」などという報道に世論が振り回されたりすることは古今東西似たようなものだ。実際、LHCはそのような抵抗にも苦慮していたのだ。
NHKを始めとする日本の報道機関や科学番組が「神の〜」を引用するとき、特に詳しく補足解説しない限りその意味合いは定かではない。しかし、一般的に視聴者が受け取るのは、おそらく「神聖で、人智を超えた存在の証」という印象である。もちろん物理学者は誰もヒッグス粒子がそのような粒子だとは考えていない。
本書の科学的な記述の正確さについて
最後に本書の科学的な記述の正確さについて述べておこう。
十分な下調べや科学者からの説明を著者は受けているだけあって、科学的にかなり正確な文章だった。どこかの新聞のようにヒッグス粒子は「物質の質量の起源を明らかにした。」とは表現せず、ちゃんと「素粒子の質量の起源を明らかにした。」と書かれていたし、それによって説明がつくのは「質量の起源のうち1パーセントにすぎない。」こと、残りの99パーセントは原子核内部の「強い力」のエネルギーであること、エネルギーと質量の等価交換によりそれが「質量」とみなされることなどが正しく解説されていた。
それでもヒッグス機構による質量獲得のしくみの説明は間違っていた。本書では「雪原を歩く人の雪靴が抵抗を受ける形」での説明がされていた。イメージ的に降り積もる雪はヒッグス場に似ているが、質量獲得の説明としては「水飴方式」と大差なく、正しい説明とはいえない。
あと、本書を読んだからといって一般読者(非理数系の読者)が標準理論や個々の素粒子のことを詳しく理解できるようになるわけではない。それは本書が物理学自体の「解説」に重心を置いたものではないからだ。本書は科学ドキュメンタリー作品として楽しみながら、実際に起きていた事実を知るための本である。
読み進むにつれて感動がじわじわとこみ上げてくる。特に最終章に書かれている人間ドラマは圧巻だ。7月4日の報告会は僕もライブでネット中継を見たが、その2ヶ月前からその瞬間までのピリピリした緊迫感は、まさにそれが現実のものだったからこそ胸に迫ってきたのだと思う。あの日の感動をもう一度思い出したい方はこの記事の一番下に挿入した動画をご覧になるとよい。
本書はぜひ多くの方、特に今年のノーベル物理学賞の意義や背景を詳しく知りたい方にお読みいただきたい。
翻訳の元になった英語版
本書の翻訳の元になったのはこの英語版だ。
「Massive: The Hunt for the God Particle: Ian Sample」2011年3月刊行
けれども、その後2012年7月4日のヒッグス粒子発見の報告後、改訂された英語版が刊行されている。英語でお読みになる方は、改訂版(Updated Edition)をお買い求めいただきたい。
「Massive: The Higgs Boson and the Greatest Hunt in Science: Updated Edition: Ian Sample」2013年2月刊行
関連記事:
祝!:ヒッグス粒子発見
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/f88350541542f732fec74af583a29e50
速報:2013年ノーベル物理学賞はヒッグス博士とアングレール博士に決定!
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e4c4d6d15d52e86a94caccd6da8edb5e
解説:NHKスペシャル「神の数式」第1回:この世は何からできているのか
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強い力と弱い力-ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く:大栗博司
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/06c3fdc3ed4e0908c75e3d7f20dd7177
「標準模型」の宇宙:ブルース・シューム
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「ヒッグス粒子の発見:イアン・サンプル」
プロローグ
- すべては「場の目覚め」から始まった
- 「神の粒子」を蔑視した科学者たち
第1章:プリンストンへ――その遥かなる道のり
- 「質量」に思いをめぐらせた男たち
- 物質の究極を求めて
- 標準理論の最後のピース
- ヒッグス場に手なずけられた素粒子たち
- ヒッグスに届いた招待状
- 「君は勘違いしたんだ」
- ヒッグスの得た確信
- ヒッグスの理論が開いた扉
第2章:原爆の影
- ニュースと宣伝
- メディア革命の最中に生まれて
- 光を見出した方程式−マックスウェルの登場
- 科学者に明日は予見できない
- 物理学に恋をした男−マックス・プランク
- マックスェルからプランク、アインシュタインへ
- 北海の孤島で思索したハイゼンベルク
- アルプスのロッジで情婦と過ごしたシュレーディンガー
- 量子力学と相対性理論を融合させたディラック
- ディラックに魅了されたヒッグス
- 大戦下の物理学者たち
- フェルミが到達した“新大陸”
- ハイゼンベルクが犯した計算ミス
- ダイソンの告白
第3章:79行の論文
- ヒッグスの挑発
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- 南部陽一郎の論文と出会って
- 「対称性の破れ」に注目せよ
- 自発的対称性の破れ
- 南部理論に取り組んだ第三のグループ
- CERNに送った論文
- 7週間早く掲載された論文
- 「偉大な物理学者になる」とはどういうことか
第4章:名誉を分け合うべき男たち
- 真空に隠された「ヒッグス場」
- 立ちはだかった難題
- ワインバーグ−マックスウェル以来の偉業を成し遂げた男
- 数式と曲線で埋め尽くされた黒板
- 千載一遇のチャンスを逃したヒッグス
- 「発散」問題ふたたび
- “街娼の館”で研究したユトレヒトの師弟
- カエルの王子さま
- 追い詰められたヒッグス
- 「ヒッグス機構」の名をめぐって
第5章:電弱理論の確証を求めて
- 加速器の登場
- 宇宙開発競争に比肩する加速器開発
- ヨーロッパの焦りが生んだ「CERN」
- 国防への貢献を問われて
- とらえられた飛跡
- 大西洋を挟んだつばぜり合い
- 中性カレントが「生命の誕生」に及ぼした影響
- 「強い力」をふりほどけ
- フェルミ研を見限ったルビア
- CERNの地下に生まれたゴリアテとダビデ
- 「ロープに水を!」
- 「これは本物だ」
- CERN内部の争い
- W粒子の発見
- ヒッグス粒子はどうふるまうのか
- 「切なるリベンジ」を
第6章:野望と挫折
- 「敵陣深く投げろ」
- 出典を探せ
- 政治的難局を乗り越えて
- LHCへの射程
- SSC計画の萌芽
- SSC計画への非難
- ワインバーグの見解
- 全米25州が誘致
- ブッシュ-宮沢階段の裏で−頓挫したSSC
- SSCの死を看取って誕生した“神の粒子”
第7章:加速器が放った閃光
- 加速器を知り尽くした男
- LEPはなぜ地下に設置されたのか
- 国境を4度もまたぐトンネル
- LEPの始動−月の満ち欠けにも影響を受けて
- 「君はヒッグス粒子を見つけたのかね?」
- 絶世の美女の歩みを止めるヒッグス粒子
- 重くなったマギー
- モノポール−とてつもなく重い“アメーバ”
- 追い詰められたLEP
第8章:「世界の終焉」論争
- 素粒子物理学界を揺るがした2通の投書
- 地球を破壊するビッグバン・マシーン
- 疑念が疑念を生んで
- 連結された加速器と爆弾魔“ユナボマー”
- ストレンジレットの脅威
- 「真空崩壊」という悪夢
- 「私たちの真空」の正体
- ガイガーカウンターを振りかざす抗議者
- 「5000万回に1回」のリスク
- 加速器と自然界は「同じ実験」をしているのか
- 「起こりうる損害に上限はない」
第9章:“幻影”に翻弄された男たち
- 「ヒッグス粒子は飛ばない」
- 予備装置なしでのフル稼働
- ヒッグス粒子の影
- 「5σ」の壁
- ホーキング対ヒッグス−相容れない主張
- ヒッグス粒子に指先を触れて
- CERN所長の翻意
- 大西洋を渡った100ドルの小切手
- ヒッグス粒子の存在を否定された科学者たち
第10章:「発見」前夜
- 「対称性の破れ」に迎えられて
- 「何なんだこれは?」
- 海の向こうに送られた指令
- 超対称性理論が描き出す世界
- Webが科学を変容させる
- 「怪物の捜索は続く」
- 「チャンスはあるっていうことだよね?」
- 標的を定めたATLAS
- 再始動への高いハードル
- 「神はヒッグス粒子を嫌っている」
第11章:「隠された世界」
- 「兆候」と「発見」
- 「標準理論のヒッグス粒子」は歓迎されず
- フェルトマンの懐疑
- 「役に立たない電子に乾杯」
- 4度めの科学革命を
- ヒッグスから届いた手紙
最終章:「新しい粒子」に導かれて
- 歴戦の強者たちが一堂に会して
- ピーター・ヒッグスへの伝言
- 神経を苛立たせるような事件
- ヒッグス粒子の存在しない場所に注目せよ
- 「ZZ」チャンネル
- シシリー島のヒッグス
- ウェブに漏洩した動画
- 「発見」と「観測」
- 「発見したのです」
- “彼ら”の賛辞
- 明日への扉を開くのか
- エディンバラの雨
謝辞
参考文献
巻末解説
事項索引
人名索引
関連動画:
2012年7月4日のプレスカンファレンス
ヒッグス粒子発見についてのセミナーと講義(必見!)
ヒッグス博士によるアナウンスメント