「天体力学のパイオニアたち 上: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)―カオスと安定性をめぐる人物史
内容紹介:
天体力学とは、太陽系内の惑星の運動に代表される、ニュートンの万有引力を及ぼし合う物体の運動を論じる学問である。なかでも太陽系の安定性の問題には、数多くの数学者がエネルギーを費やしてきた。フランスのポアンカレ、ロシアのコルモゴロフ、アーノルド、米国のバーコフ、スメールなど、煌星のごとくである。本書は、カオスや安定性の概念が天体力学の問題からいかに発生したかを、生身の人間の営みを通して生き生きと描いた大河ドラマである。
2004年9月刊行、206ページ。
著者について:
F.ディアク: Wikipedia
1959年、ルーマニアのシビウ生まれ。ブカレスト大学で学び、1989年に、ハイデルベルク大学でヴィリ・イェガーの指導のもと、n体問題の衝突特異点に関する論文でPh.D.を取得。1991年よりヴィクトリア大学で教鞭をとり、2000年より同大学教授。主要な研究分野は天体力学、力学系理論、カオス理論、数理物理学などである。2018年没。
P.ホームズ: Wikipedia
1945年、英国リンカーンシャー生まれ。オックスフォード大学とサウザンプトン大学で学び、1974年に、サウザンプトン大学でR.G.ホワイトの指導のもと、工学の分野の論文でPh.D.を取得。1977年より1994年までコーネル大学で教鞭をとり、1994年よりプリンストン大学教授。主要な研究分野は非線形力学系理論、微分方程式論などである。
訳者について:
吉田春夫(よしだ はるお): 教員紹介ページ
1983年、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。現在、自然科学研究機構・国立天文台教授。理学博士。専門は天体力学。
吉田先生の著書、訳書: Amazonで検索
理数系書籍のレビュー記事は本書で393冊目。
前回紹介した「数理解析のパイオニアたち: V.I.アーノルド」と同様、本書も昨年秋に開催された「第59回 神田古本まつり、第28回 神保町ブックフェスティバル」の際、明倫館書店の店内の本棚から買ったものだ。
ニュートン(1642-1727)が1687年に著書『プリンキピア』でケプラーの3法則を数理的に証明したことによって、それまで幾何学だった惑星の運動は力学になった。ユークリッド幾何を使って太陽の周りを回る惑星の軌道は楕円軌道であり、その限りにおいて公転運動は未来永劫に続くのだと計算上で示される。
けれども惑星どうしも万有引力で引き合っているのだから、厳密にいえば惑星の軌道は他の惑星の引力に影響されており、完全な楕円軌道を描くわけではない。ニュートンもそのことに気がついていた。
『プリンキピア』は当時の科学者たちに大きな影響を与え、ライプニッツ(1646-1716)によって発明された微積分記号を使って研究が重ねられていった。際立っているのがフランスの科学者、ラプラス(1749-1827)であり1799年から1825年にわたって出版した『天体力学論』という全5巻の大著を残した。「天体力学」という言葉を使い始めたのもラプラスである。そしてラプラスは、史上はじめて「惑星の運動の安定性」に言及し、計算を試みて特定の条件においてそれが安定であることを証明したのだ。
太陽系の惑星は多少のぶれはあったとしても、未来永劫安定して回っていることができるだろうか?惑星探査衛星は、巨大惑星の近くをかすめて飛行することでその大きな引力を利用して加速するという方法がとられている。この「スイングバイ」という方法のように、惑星そのものが本来の軌道を離れて宇宙空間の彼方に飛び去ってしまうことはないのだろうか?
これは太陽の周囲を地球と月がまわる状況をトレースしたもの。質量や初速度を変えると、このような軌道があらわれる。地球は宇宙の彼方に飛んで行ってしまうのだ。
3つの天体がそれぞれ引力をおよぼしあっている条件で、その運動を求める問題のことを3体問題と呼んでいる。10年以上前に書いたこの記事で紹介したこの例は、太陽と地球と月の運動を初期条件を変えて描いたものだ。天体がたった3つであっても、悪夢がおきることがわかる。天体が4つ、5つと増えると、その可能性は増していくのではないだろうか? ごく自然な疑問である。
ラプラス以降、数学者ラグランジュ(1736-1813)もこの問題に取り組み、ラプラスより精密な形で惑星の運動の安定性を証明した。これについては本書の下巻で解説することにしよう。
さらに数十年が経ち、同じ問題に取り組んだのがフランスの数学者、ポアンカレ(1854-1912年)である。当時はまだ3つ以上の天体が関わる系の運動、いわゆるN体問題を解くことが課題とされていた。2体問題であればニュートン力学を使って簡単に解くことができ、惑星の軌道は円か楕円、放物線、双曲線のいずれか、つまり2次曲線になることがわかっていた。運動方程式は微分方程式としてあらわされ、天体の位置と速度が初期値として与えられれば、方程式を積分することで解くことができる。
ポアンカレは次に3体問題に取り組む。しかし3体問題は微分方程式と初期値を与えても、一般的には解くことができないのだ。専門用語でいえば微分方程式が「可積分」でないからである。
ところで3体問題が解析的に解けない、つまり微積分を使って厳密な形で解けないことは、微分ガロア理論を使っても証明できるという。ガロア(1811-1832)といえば群論だ。5次方程式の解の公式が存在しないことはガロア理論を使って証明できるのは、よく知られていることだが、3体問題の解析解が存在しないことにもガロアは貢献している。その証明は次の英語PDFで読むことができる。Non-integrability of the three-body problemとは3体問題の不可積分性のことで、つまり3体問題が解析的に解けないという意味だ。
The meromorphic non-integrability of the three-body problem
Tsygvintsev Alexei
https://arxiv.org/pdf/math/0009218.pdf
Non-integrability of the three-body problem
Andrzej J. Maciejewski, Maria Przybylska
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-00619276/document
3体問題の微分方程式は厳密な形では解けないのだから、近似的に解くことしか残されていない。これはニュートンやラプラス以来、採られてきた方法だ。天文学ではこの方法を「摂動法」と呼んでいる。たとえて言えば、一般的な曲線を近似するときに直線(1次)、2次曲線、3次曲線のように段階を踏んで近似していく計算方法である。そして一般的な条件では計算が複雑になり過ぎるので、ポアンカレは3天体が平面内を運動するという制限をつけて計算することにした。これを制限3体問題という。3体問題や多体問題は興味深いテーマだし、今回は本の紹介記事だから、別記事として後日書くことにしよう。
彼がこの計算を進めていくうちに、天体の運動が初期値の少しの違いによって大きく変わることがあるのに気がついた。そのわずかな違いによって運動は安定になったり不安定になったりする。後に「カオス」と呼ばれることになるこの現象は、3体問題をあらわす微分方程式の解の安定性の研究の中から誕生した。歴史的瞬間である。彼は論文を書き、後に『天体力学の新しい方法』として出版する。
ポアンカレ自身、天体のこの奇妙な振る舞いをすぐには受け入れることができなかった。彼が元にしているのはニュートン力学、万有引力の法則だけである。なぜこのように複雑で予測が付かない運動が生じるのか。。。その神秘を探求するために必要な時間はもはや彼に残されていなかった。彼は一般相対性理論が発表される4年前、1912年にこの世を去ることになる。「カオス」が再び天体力学という数学の表舞台に登場するのは、ポアンカレの死後50年たった1960年代のことだった。
前置きが長くなったが本書の第1章で解説されるのは、ニュートンからポアンカレがカオスを発見するまでの数学史である。「天体力学のパイオニアたち」というタイトルだが、本書は3体問題、多体問題に立ち向かう数学者たちの物語だ。この上巻の章と項のタイトルは次のとおりである。
第1章:偉大な発見
- そして過ち
- パリの散策
- ニュートンの洞察
- 自然の法則を記述する言語
- 現実のモデル
- 多様体の世界
- n体問題
- オスカー王の賞
- ポアンカレの業績
- 『新しい方法』
- 不動点
- 第1回帰
- カオスを垣間見る
- パンドラの箱
- ポアンカレの過ち
- 驚くべき発見
第2章:記号力学
- 不動点で始まる経歴
- リオの浜辺にて
- スメールの馬蹄
- 記号のシフト
- カオスの記号
- 振動と回転
- 新しい科学
第3章:衝突とそれ以外の特異点
- 特異な人
- 衝突か爆発か
- コンピュータ・ゲーム
- ウサギ1匹捕まえるには
- 成功の度合い
- 衝突の正則化
- 天体の玉突き
- ある会議での出会い
- 4体から5体へ
- 1世紀にわたる追及の終焉
- 対称な脱線
- 夕食でのあるアイデア
第2章では、カオスを取り扱うために使われる現代数学の解説だ。記号力学、シフト写像、カントール集合、不動点、トポロジー、測度論など。そして斬新な「馬蹄」というトポロジーのアイデアが数学者スティーヴン・スメール(1930-)によって考案される。
このスメールのアイデアを基盤にして、第3章から紹介される数学者たちの斬新なアイデアが積み重ねられ、4体問題、5体問題でのカオス運動や、または安定な運動が発見されていく。3体以上の問題だとあらかじめ計算しやすい条件を課すことになる。それはそれで人為的なのだが、ぎりぎりのところで研究を突き詰めていく数学者たちの叡智に心を動かされることになる。
1960年代以降、コンピュータが使えるようになり、多体問題は視覚的にヒントを得られ、研究の道具のひとつとなっていった。しかし、どんなに計算能力が増しても無限の未来までを計算することはできない。数学だけがそれを可能にしてくれる道具なのである。本書は現代数学の威力をまざまざと見せてくれる。
量子力学の不確定性原理は、未来が不確定であることの一つの原因である。粒子と粒子の相互作用が非決定論的、確率論的な未来を生じさせる。(参考記事:「鉛筆はどれくらいの時間立っていられるか?」)
それに加えてニュートン力学だけの世界から、未来を予測不能にするカオス現象があらわれるというのがこの分野の魅力である。(一般相対性理論ベースの3体問題、多体問題が本当の運動をあらわすのだが、複雑すぎて数学者は証明できない。)
本書で解説される運動現象は、ニュートン力学をもとにしたものだけであり、質点は無限小であり、その初期条件は人為的なものが選ばれている。とても現実の天体とは思えない、数学の世界だけで通用する力学だ。しかし、複数の仮想天体が描く美しい軌道を見るとき、また安定し続けると思われているそれらの動きが突然崩れて、予測もできない崩壊を見せるとき、この謎を解き明かしたいと一歩を踏み出し、取り憑かれてしまうのである。本書はそのような数学者たちの物語である。
お読みになりたい方は、こちらからどうぞ。
「天体力学のパイオニアたち 上: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)
「天体力学のパイオニアたち 下: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)
翻訳のもとになった英語版はこちらである。日本語の上下巻がまとめて1冊の本で読める。
「Celestial Encounters: The Orgins of Chaos and Stability: Florin Diacu, Philip Holmes」
カオスを含め、この分野は「力学系」として分類される。第2章にでてくるスメール博士がお書きになった、定番の教科書はこちら。最新の第3版の日本語版は2017年に刊行されたばかりだ。
「Hirsch・Smale・Devaney 力学系入門 ―微分方程式からカオスまで― 第3版」(第2版)(初版)
同書の英語版はこちらである。
「Differential Equations, Dynamical Systems, and an Introduction to Chaos, Third Edition 3rd Ed」(Kindle Ed)(2nd Ed)(1st Ed)
力学系の本: Amazonで検索
ポアンカレが3体問題の微分方程式を論じ、カオスを発見したことを教科書にしたのがこの本である。
「ポアンカレ 常微分方程式 -天体力学の新しい方法-」
原書のフランス語版は、昨年新装版が発売されたばかりだ。
「Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste, Vol. 1: Henri Poincaré」
「Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste, Vol. 2: Henri Poincaré」
「Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste, Vol. 3: Henri Poincaré」
もちろん英語版も刊行されているが、高過ぎてお勧めできない。: Amazonで検索
さて、最後に3体問題の動画をひとつ紹介し、引き続き下巻に進もう。
3体問題
3体問題の動画: YouTubeで検索
関連記事:
数理解析のパイオニアたち: V.I.アーノルド
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/165c894d023b1174fd519522935cdeeb
古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ:山本義隆
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e808487b7e9d668967f703396e32d80a
全5巻完結!:ラプラスの天体力学論(日本語版)
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a720b0cfb775d00625763f87a56b2414
発売情報: 惑星探査機の軌道計算入門: 半揚稔雄
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a3aba0b87bff8a8ae54fb37ad1b04504
1つずつ応援クリックをお願いします。
「天体力学のパイオニアたち 上: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)
上巻
序文と謝辞
読者へのノート
第1章:偉大な発見
- そして過ち
- パリの散策
- ニュートンの洞察
- 自然の法則を記述する言語
- 現実のモデル
- 多様体の世界
- n体問題
- オスカー王の賞
- ポアンカレの業績
- 『新しい方法』
- 不動点
- 第1回帰
- カオスを垣間見る
- パンドラの箱
- ポアンカレの過ち
- 驚くべき発見
第2章:記号力学
- 不動点で始まる経歴
- リオの浜辺にて
- スメールの馬蹄
- 記号のシフト
- カオスの記号
- 振動と回転
- 新しい科学
第3章:衝突とそれ以外の特異点
- 特異な人
- 衝突か爆発か
- コンピュータ・ゲーム
- ウサギ1匹捕まえるには
- 成功の度合い
- 衝突の正則化
- 天体の玉突き
- ある会議での出会い
- 4体から5体へ
- 1世紀にわたる追及の終焉
- 対称な脱線
- 夕食でのあるアイデア
ノート
参考文献
索引
下巻
第4章:安定性
- 秩序への願い
- 侯爵と皇帝
- 球面の音楽
- 永遠の回帰
- 世界をかき乱す
- 安定性の度合い
- 定性的な時代
- 線形化とその限界
- モデルの安定性
- つり合いの位置にある惑星たち
第5章:KAM理論
- 簡単化して解く
- 準周期運動
- トーラスの摂動
- 手紙,失われた解,そして政治
- 証明に悩む
- ツイスト写像
- 才能ある学生
- カオスの拡散
- エピローグ
ノート
参考文献
訳者あとがき
索引
内容紹介:
天体力学とは、太陽系内の惑星の運動に代表される、ニュートンの万有引力を及ぼし合う物体の運動を論じる学問である。なかでも太陽系の安定性の問題には、数多くの数学者がエネルギーを費やしてきた。フランスのポアンカレ、ロシアのコルモゴロフ、アーノルド、米国のバーコフ、スメールなど、煌星のごとくである。本書は、カオスや安定性の概念が天体力学の問題からいかに発生したかを、生身の人間の営みを通して生き生きと描いた大河ドラマである。
2004年9月刊行、206ページ。
著者について:
F.ディアク: Wikipedia
1959年、ルーマニアのシビウ生まれ。ブカレスト大学で学び、1989年に、ハイデルベルク大学でヴィリ・イェガーの指導のもと、n体問題の衝突特異点に関する論文でPh.D.を取得。1991年よりヴィクトリア大学で教鞭をとり、2000年より同大学教授。主要な研究分野は天体力学、力学系理論、カオス理論、数理物理学などである。2018年没。
P.ホームズ: Wikipedia
1945年、英国リンカーンシャー生まれ。オックスフォード大学とサウザンプトン大学で学び、1974年に、サウザンプトン大学でR.G.ホワイトの指導のもと、工学の分野の論文でPh.D.を取得。1977年より1994年までコーネル大学で教鞭をとり、1994年よりプリンストン大学教授。主要な研究分野は非線形力学系理論、微分方程式論などである。
訳者について:
吉田春夫(よしだ はるお): 教員紹介ページ
1983年、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。現在、自然科学研究機構・国立天文台教授。理学博士。専門は天体力学。
吉田先生の著書、訳書: Amazonで検索
理数系書籍のレビュー記事は本書で393冊目。
前回紹介した「数理解析のパイオニアたち: V.I.アーノルド」と同様、本書も昨年秋に開催された「第59回 神田古本まつり、第28回 神保町ブックフェスティバル」の際、明倫館書店の店内の本棚から買ったものだ。
ニュートン(1642-1727)が1687年に著書『プリンキピア』でケプラーの3法則を数理的に証明したことによって、それまで幾何学だった惑星の運動は力学になった。ユークリッド幾何を使って太陽の周りを回る惑星の軌道は楕円軌道であり、その限りにおいて公転運動は未来永劫に続くのだと計算上で示される。
けれども惑星どうしも万有引力で引き合っているのだから、厳密にいえば惑星の軌道は他の惑星の引力に影響されており、完全な楕円軌道を描くわけではない。ニュートンもそのことに気がついていた。
『プリンキピア』は当時の科学者たちに大きな影響を与え、ライプニッツ(1646-1716)によって発明された微積分記号を使って研究が重ねられていった。際立っているのがフランスの科学者、ラプラス(1749-1827)であり1799年から1825年にわたって出版した『天体力学論』という全5巻の大著を残した。「天体力学」という言葉を使い始めたのもラプラスである。そしてラプラスは、史上はじめて「惑星の運動の安定性」に言及し、計算を試みて特定の条件においてそれが安定であることを証明したのだ。
太陽系の惑星は多少のぶれはあったとしても、未来永劫安定して回っていることができるだろうか?惑星探査衛星は、巨大惑星の近くをかすめて飛行することでその大きな引力を利用して加速するという方法がとられている。この「スイングバイ」という方法のように、惑星そのものが本来の軌道を離れて宇宙空間の彼方に飛び去ってしまうことはないのだろうか?
これは太陽の周囲を地球と月がまわる状況をトレースしたもの。質量や初速度を変えると、このような軌道があらわれる。地球は宇宙の彼方に飛んで行ってしまうのだ。
3つの天体がそれぞれ引力をおよぼしあっている条件で、その運動を求める問題のことを3体問題と呼んでいる。10年以上前に書いたこの記事で紹介したこの例は、太陽と地球と月の運動を初期条件を変えて描いたものだ。天体がたった3つであっても、悪夢がおきることがわかる。天体が4つ、5つと増えると、その可能性は増していくのではないだろうか? ごく自然な疑問である。
ラプラス以降、数学者ラグランジュ(1736-1813)もこの問題に取り組み、ラプラスより精密な形で惑星の運動の安定性を証明した。これについては本書の下巻で解説することにしよう。
さらに数十年が経ち、同じ問題に取り組んだのがフランスの数学者、ポアンカレ(1854-1912年)である。当時はまだ3つ以上の天体が関わる系の運動、いわゆるN体問題を解くことが課題とされていた。2体問題であればニュートン力学を使って簡単に解くことができ、惑星の軌道は円か楕円、放物線、双曲線のいずれか、つまり2次曲線になることがわかっていた。運動方程式は微分方程式としてあらわされ、天体の位置と速度が初期値として与えられれば、方程式を積分することで解くことができる。
ポアンカレは次に3体問題に取り組む。しかし3体問題は微分方程式と初期値を与えても、一般的には解くことができないのだ。専門用語でいえば微分方程式が「可積分」でないからである。
ところで3体問題が解析的に解けない、つまり微積分を使って厳密な形で解けないことは、微分ガロア理論を使っても証明できるという。ガロア(1811-1832)といえば群論だ。5次方程式の解の公式が存在しないことはガロア理論を使って証明できるのは、よく知られていることだが、3体問題の解析解が存在しないことにもガロアは貢献している。その証明は次の英語PDFで読むことができる。Non-integrability of the three-body problemとは3体問題の不可積分性のことで、つまり3体問題が解析的に解けないという意味だ。
The meromorphic non-integrability of the three-body problem
Tsygvintsev Alexei
https://arxiv.org/pdf/math/0009218.pdf
Non-integrability of the three-body problem
Andrzej J. Maciejewski, Maria Przybylska
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-00619276/document
3体問題の微分方程式は厳密な形では解けないのだから、近似的に解くことしか残されていない。これはニュートンやラプラス以来、採られてきた方法だ。天文学ではこの方法を「摂動法」と呼んでいる。たとえて言えば、一般的な曲線を近似するときに直線(1次)、2次曲線、3次曲線のように段階を踏んで近似していく計算方法である。そして一般的な条件では計算が複雑になり過ぎるので、ポアンカレは3天体が平面内を運動するという制限をつけて計算することにした。これを制限3体問題という。3体問題や多体問題は興味深いテーマだし、今回は本の紹介記事だから、別記事として後日書くことにしよう。
彼がこの計算を進めていくうちに、天体の運動が初期値の少しの違いによって大きく変わることがあるのに気がついた。そのわずかな違いによって運動は安定になったり不安定になったりする。後に「カオス」と呼ばれることになるこの現象は、3体問題をあらわす微分方程式の解の安定性の研究の中から誕生した。歴史的瞬間である。彼は論文を書き、後に『天体力学の新しい方法』として出版する。
ポアンカレ自身、天体のこの奇妙な振る舞いをすぐには受け入れることができなかった。彼が元にしているのはニュートン力学、万有引力の法則だけである。なぜこのように複雑で予測が付かない運動が生じるのか。。。その神秘を探求するために必要な時間はもはや彼に残されていなかった。彼は一般相対性理論が発表される4年前、1912年にこの世を去ることになる。「カオス」が再び天体力学という数学の表舞台に登場するのは、ポアンカレの死後50年たった1960年代のことだった。
前置きが長くなったが本書の第1章で解説されるのは、ニュートンからポアンカレがカオスを発見するまでの数学史である。「天体力学のパイオニアたち」というタイトルだが、本書は3体問題、多体問題に立ち向かう数学者たちの物語だ。この上巻の章と項のタイトルは次のとおりである。
第1章:偉大な発見
- そして過ち
- パリの散策
- ニュートンの洞察
- 自然の法則を記述する言語
- 現実のモデル
- 多様体の世界
- n体問題
- オスカー王の賞
- ポアンカレの業績
- 『新しい方法』
- 不動点
- 第1回帰
- カオスを垣間見る
- パンドラの箱
- ポアンカレの過ち
- 驚くべき発見
第2章:記号力学
- 不動点で始まる経歴
- リオの浜辺にて
- スメールの馬蹄
- 記号のシフト
- カオスの記号
- 振動と回転
- 新しい科学
第3章:衝突とそれ以外の特異点
- 特異な人
- 衝突か爆発か
- コンピュータ・ゲーム
- ウサギ1匹捕まえるには
- 成功の度合い
- 衝突の正則化
- 天体の玉突き
- ある会議での出会い
- 4体から5体へ
- 1世紀にわたる追及の終焉
- 対称な脱線
- 夕食でのあるアイデア
第2章では、カオスを取り扱うために使われる現代数学の解説だ。記号力学、シフト写像、カントール集合、不動点、トポロジー、測度論など。そして斬新な「馬蹄」というトポロジーのアイデアが数学者スティーヴン・スメール(1930-)によって考案される。
このスメールのアイデアを基盤にして、第3章から紹介される数学者たちの斬新なアイデアが積み重ねられ、4体問題、5体問題でのカオス運動や、または安定な運動が発見されていく。3体以上の問題だとあらかじめ計算しやすい条件を課すことになる。それはそれで人為的なのだが、ぎりぎりのところで研究を突き詰めていく数学者たちの叡智に心を動かされることになる。
1960年代以降、コンピュータが使えるようになり、多体問題は視覚的にヒントを得られ、研究の道具のひとつとなっていった。しかし、どんなに計算能力が増しても無限の未来までを計算することはできない。数学だけがそれを可能にしてくれる道具なのである。本書は現代数学の威力をまざまざと見せてくれる。
量子力学の不確定性原理は、未来が不確定であることの一つの原因である。粒子と粒子の相互作用が非決定論的、確率論的な未来を生じさせる。(参考記事:「鉛筆はどれくらいの時間立っていられるか?」)
それに加えてニュートン力学だけの世界から、未来を予測不能にするカオス現象があらわれるというのがこの分野の魅力である。(一般相対性理論ベースの3体問題、多体問題が本当の運動をあらわすのだが、複雑すぎて数学者は証明できない。)
本書で解説される運動現象は、ニュートン力学をもとにしたものだけであり、質点は無限小であり、その初期条件は人為的なものが選ばれている。とても現実の天体とは思えない、数学の世界だけで通用する力学だ。しかし、複数の仮想天体が描く美しい軌道を見るとき、また安定し続けると思われているそれらの動きが突然崩れて、予測もできない崩壊を見せるとき、この謎を解き明かしたいと一歩を踏み出し、取り憑かれてしまうのである。本書はそのような数学者たちの物語である。
お読みになりたい方は、こちらからどうぞ。
「天体力学のパイオニアたち 上: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)
「天体力学のパイオニアたち 下: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)
翻訳のもとになった英語版はこちらである。日本語の上下巻がまとめて1冊の本で読める。
「Celestial Encounters: The Orgins of Chaos and Stability: Florin Diacu, Philip Holmes」
カオスを含め、この分野は「力学系」として分類される。第2章にでてくるスメール博士がお書きになった、定番の教科書はこちら。最新の第3版の日本語版は2017年に刊行されたばかりだ。
「Hirsch・Smale・Devaney 力学系入門 ―微分方程式からカオスまで― 第3版」(第2版)(初版)
同書の英語版はこちらである。
「Differential Equations, Dynamical Systems, and an Introduction to Chaos, Third Edition 3rd Ed」(Kindle Ed)(2nd Ed)(1st Ed)
力学系の本: Amazonで検索
ポアンカレが3体問題の微分方程式を論じ、カオスを発見したことを教科書にしたのがこの本である。
「ポアンカレ 常微分方程式 -天体力学の新しい方法-」
原書のフランス語版は、昨年新装版が発売されたばかりだ。
「Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste, Vol. 1: Henri Poincaré」
「Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste, Vol. 2: Henri Poincaré」
「Les Méthodes Nouvelles de la Mécanique Céleste, Vol. 3: Henri Poincaré」
もちろん英語版も刊行されているが、高過ぎてお勧めできない。: Amazonで検索
さて、最後に3体問題の動画をひとつ紹介し、引き続き下巻に進もう。
3体問題
3体問題の動画: YouTubeで検索
関連記事:
数理解析のパイオニアたち: V.I.アーノルド
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/165c894d023b1174fd519522935cdeeb
古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ:山本義隆
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e808487b7e9d668967f703396e32d80a
全5巻完結!:ラプラスの天体力学論(日本語版)
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a720b0cfb775d00625763f87a56b2414
発売情報: 惑星探査機の軌道計算入門: 半揚稔雄
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a3aba0b87bff8a8ae54fb37ad1b04504
1つずつ応援クリックをお願いします。
「天体力学のパイオニアたち 上: F.ディアク、R.ホームズ」(丸善出版)
上巻
序文と謝辞
読者へのノート
第1章:偉大な発見
- そして過ち
- パリの散策
- ニュートンの洞察
- 自然の法則を記述する言語
- 現実のモデル
- 多様体の世界
- n体問題
- オスカー王の賞
- ポアンカレの業績
- 『新しい方法』
- 不動点
- 第1回帰
- カオスを垣間見る
- パンドラの箱
- ポアンカレの過ち
- 驚くべき発見
第2章:記号力学
- 不動点で始まる経歴
- リオの浜辺にて
- スメールの馬蹄
- 記号のシフト
- カオスの記号
- 振動と回転
- 新しい科学
第3章:衝突とそれ以外の特異点
- 特異な人
- 衝突か爆発か
- コンピュータ・ゲーム
- ウサギ1匹捕まえるには
- 成功の度合い
- 衝突の正則化
- 天体の玉突き
- ある会議での出会い
- 4体から5体へ
- 1世紀にわたる追及の終焉
- 対称な脱線
- 夕食でのあるアイデア
ノート
参考文献
索引
下巻
第4章:安定性
- 秩序への願い
- 侯爵と皇帝
- 球面の音楽
- 永遠の回帰
- 世界をかき乱す
- 安定性の度合い
- 定性的な時代
- 線形化とその限界
- モデルの安定性
- つり合いの位置にある惑星たち
第5章:KAM理論
- 簡単化して解く
- 準周期運動
- トーラスの摂動
- 手紙,失われた解,そして政治
- 証明に悩む
- ツイスト写像
- 才能ある学生
- カオスの拡散
- エピローグ
ノート
参考文献
訳者あとがき
索引