江戸城の天守閣(CG)
先週末に勤務先のオフィスの引越しがあり、今週から「赤坂御用地」のすぐ近くのビルで働くことになった。
窓の外に広がるこの広大な緑あふれるエリアはどのような歴史的背景を持っているのだろう?赤坂御用地や皇居のことを調べているうちに、あることに気が付かされた。これはすでにご存知の方もいらっしゃるのかもしれないが、幾つになっても新しい発見というのがあるのだと思うと少し嬉しくなった。
それはむかし皇居にあった江戸城の天守閣のことだ。
ご存知のように現在の皇居には時代劇に登場するような江戸城や天守閣は建っていない。それはいつ頃に無くなったのだろうか?
天守閣があった場所は現在このようになっている。(皇居内)
この地図の赤い十字のあたりだ。
1945年の東京大空襲のときに焼失したという記録はないし、明治新政府が取り壊したという記録もない。これほど貴重な歴史的建造物をわざわざ解体するはずがない。だから天守閣は1923年の関東大震災で倒壊、焼失したのだと僕はずっと思っていた。確かに皇居内にあった御門の多くはこの震災で被害を受けている。でも天守閣の写真が残されていないのはどうしてだろう?幕末には白黒写真を撮ることができたはずだ。
トップに掲載したのはCG画像だ。時代劇に登場する江戸城の天守閣とだいぶ様子が違う。日頃テレビで私たちが見慣れているのはこれだ。
ところがこれは姫路城の写真である。江戸城はもう無くなっているので仕方なく代用しているわけだ。
ウィキペディアの「江戸城」という項目を読むと江戸城の天守閣が無くなったのはなんと1657年の「明暦の大火」による焼失のためだったという。江戸の城下町と江戸城のほとんどすべてを焼き尽くしたこの大火災でおよそ10万人が亡くなったそうだ。(焼失地域)第4代将軍「家綱」の治世のことである。(参考:徳川将軍一覧)
幕府は災害復興を優先し天守閣はその後現在に至るまで再建されることはなかった。
この城は1457年に「太田道灌」によって平山城として築城され、1590年に徳川家康が入城し江戸城となった。江戸時代は1603年から1868年の265年間とされている。そのうち天守閣が存在していたのは徳川幕府の治世の初めの50年間にすぎない。
現在の天守台の位置にあったのは「寛永天守(記事トップのCG)」という建物で、初代家康から第3代家光の治世までに建てられた3つの天守のうち最後のものだそうだ。これらはそれぞれ異なる位置に建っていたという。「寛永天守」が建っていた期間は19年間にすぎない。
- 慶長天守(1607年に完成、家康)→ その後解体
- 元和天守(1623年に完成、秀忠)→ その後解体
- 寛永天守(1638年に完成、家光)→ 1657年に焼失
これはまさに江戸時代の「スクラップ・アンド・ビルド」である。ウィキペディアの「江戸城」の中の「天守」という箇所を読むと、この3つの天守についてさらに詳しく知ることができる。
だから徳川吉宗を扱った「暴れん坊将軍」や徳川綱吉の時代の「水戸黄門」など、第5代将軍以降を舞台とした時代劇に天守閣が映し出されるのは実におかしなことなのだ。NHKの大河ドラマはどうだったかはっきり覚えていないが、これからは注意して見ることにしよう。
ドラマや映画でこの天守閣が頻繁に映されるので、江戸時代の間じゅうずっと江戸城には天守閣があったのだと私たちは思い込まされてきたのだ。これは時代考証云々のレベルではなく、番組制作会社による意図的な演出だ。
恥ずかしながら僕はこの史実を知らなかった。案外このことを知らない人は多いのかもしれない。
江戸城の天守閣再建を目指すNPO法人というのも見つけた。「役員一覧」を見ると江戸城を築城した太田道灌公第18代子孫の方が会長をなさっていることがわかる。
江戸城再建を目指す会(認定NPO法人)
http://npo-edojo.org/
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先週末に勤務先のオフィスの引越しがあり、今週から「赤坂御用地」のすぐ近くのビルで働くことになった。
窓の外に広がるこの広大な緑あふれるエリアはどのような歴史的背景を持っているのだろう?赤坂御用地や皇居のことを調べているうちに、あることに気が付かされた。これはすでにご存知の方もいらっしゃるのかもしれないが、幾つになっても新しい発見というのがあるのだと思うと少し嬉しくなった。
それはむかし皇居にあった江戸城の天守閣のことだ。
ご存知のように現在の皇居には時代劇に登場するような江戸城や天守閣は建っていない。それはいつ頃に無くなったのだろうか?
天守閣があった場所は現在このようになっている。(皇居内)
この地図の赤い十字のあたりだ。
1945年の東京大空襲のときに焼失したという記録はないし、明治新政府が取り壊したという記録もない。これほど貴重な歴史的建造物をわざわざ解体するはずがない。だから天守閣は1923年の関東大震災で倒壊、焼失したのだと僕はずっと思っていた。確かに皇居内にあった御門の多くはこの震災で被害を受けている。でも天守閣の写真が残されていないのはどうしてだろう?幕末には白黒写真を撮ることができたはずだ。
トップに掲載したのはCG画像だ。時代劇に登場する江戸城の天守閣とだいぶ様子が違う。日頃テレビで私たちが見慣れているのはこれだ。
ところがこれは姫路城の写真である。江戸城はもう無くなっているので仕方なく代用しているわけだ。
ウィキペディアの「江戸城」という項目を読むと江戸城の天守閣が無くなったのはなんと1657年の「明暦の大火」による焼失のためだったという。江戸の城下町と江戸城のほとんどすべてを焼き尽くしたこの大火災でおよそ10万人が亡くなったそうだ。(焼失地域)第4代将軍「家綱」の治世のことである。(参考:徳川将軍一覧)
幕府は災害復興を優先し天守閣はその後現在に至るまで再建されることはなかった。
この城は1457年に「太田道灌」によって平山城として築城され、1590年に徳川家康が入城し江戸城となった。江戸時代は1603年から1868年の265年間とされている。そのうち天守閣が存在していたのは徳川幕府の治世の初めの50年間にすぎない。
現在の天守台の位置にあったのは「寛永天守(記事トップのCG)」という建物で、初代家康から第3代家光の治世までに建てられた3つの天守のうち最後のものだそうだ。これらはそれぞれ異なる位置に建っていたという。「寛永天守」が建っていた期間は19年間にすぎない。
- 慶長天守(1607年に完成、家康)→ その後解体
- 元和天守(1623年に完成、秀忠)→ その後解体
- 寛永天守(1638年に完成、家光)→ 1657年に焼失
これはまさに江戸時代の「スクラップ・アンド・ビルド」である。ウィキペディアの「江戸城」の中の「天守」という箇所を読むと、この3つの天守についてさらに詳しく知ることができる。
だから徳川吉宗を扱った「暴れん坊将軍」や徳川綱吉の時代の「水戸黄門」など、第5代将軍以降を舞台とした時代劇に天守閣が映し出されるのは実におかしなことなのだ。NHKの大河ドラマはどうだったかはっきり覚えていないが、これからは注意して見ることにしよう。
ドラマや映画でこの天守閣が頻繁に映されるので、江戸時代の間じゅうずっと江戸城には天守閣があったのだと私たちは思い込まされてきたのだ。これは時代考証云々のレベルではなく、番組制作会社による意図的な演出だ。
恥ずかしながら僕はこの史実を知らなかった。案外このことを知らない人は多いのかもしれない。
江戸城の天守閣再建を目指すNPO法人というのも見つけた。「役員一覧」を見ると江戸城を築城した太田道灌公第18代子孫の方が会長をなさっていることがわかる。
江戸城再建を目指す会(認定NPO法人)
http://npo-edojo.org/
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