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昭和45年11月25日―三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃: 中川右介

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昭和45年11月25日―三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃: 中川右介」(Kindle版

内容紹介:
昭和45年11月25日、三島由紀夫、自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹、介錯される―。一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に拾い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化をあぶり出した新しいノンフィクション。
2010年9月刊行、284ページ。

著者について:
中川右介(なかがわ ゆうすけ): ウィキペディアの記事 Twitter: @NakagawaYusuke
1960年生まれ。編集者、文筆家。早稲田大学第二文学部卒業後、クラシック音楽・歌舞伎を中心に、膨大な資料を収集し、比較対照作業から見逃されていた事実を再構築する独自のスタイルで精力的に執筆。「クラシックジャーナル」編集長、出版社「アルファベータ」代表取締役編集長でもある。


ノーベル文学賞候補にもあがっていた流行作家が、防衛庁で総監を人質に立てこもり、数百人の自衛隊員の前で演説をし、憲法改正のための決起を呼びかけた後に割腹自殺したという前代未聞の事件がおきたのが、昭和45年11月25日の昼頃のことである。この三島事件はテレビで生中継され、日本中に大きな衝撃を与えた。三島由紀夫は45歳である。

昨今は本を全く読まない若者が増えているので、三島由紀夫やこの事件のことを知らない人は、まずこの動画をご覧になってほしい。




この時点で日本は戦後25年経っていて、経済成長の真っただ中。朝ドラの「ひよっこ」の最終回は1968年が舞台なのでその2年後のこと、大阪万博が開かれた年である。三島のとった行動は時代錯誤も甚だしい。しかし、これほど優秀な人物が、なぜこのような行動をとってしまったか、さまざまな解釈や憶測がとんだのである。

あらかじめお断りしておくが、僕は三島由紀夫の小説は好きだが、彼の信奉者ではない。憲法改正論議や来たる衆院選に結び付けようという気もまったくない。たまたま手にした本書が面白かったから紹介するだけである。


この事件がおきた日、僕は小学2年生で、この日は水曜日だったから学校で授業を受けていたはずである。「まぼろしの掃除当番表」という記事で紹介したように、木造校舎で若い女性教師が担任だった。

小学2年生が三島由紀夫を知っているとしたら、それは彼の文学作品ではなく、床屋で見る週刊誌やテレビで見かける男気のある文化人としての姿だったろう。僕が三島由紀夫の小説を読むのは高校1年生になってからだ。

午前の授業を終え、担任の先生はいったん職員室に戻るかもしれないが、給食は受け持ちのクラスの児童と食べるから、職員室で事件を知ったとしても詳しいことはわからなかったはずだ。

おそらく僕が事件のことを知ったのは帰宅後、夕刊を見てのことだったのだろう。幸い我が家は読売新聞だった。(朝日新聞の夕刊の都市配布分、早刷版には切断後の三島の頭部が掲載されてしまった。)その晩か次の日の晩、切腹する男の夢を見てうなされて目を覚ました記憶は残っている。


1970年=昭和45年は、昭和のオールスターが揃っていた年だ。昭和天皇はまだまだ元気だったし、内閣総理大臣は佐藤栄作(当時69歳)、自民党幹事長は田中角栄(当時52歳)、防衛庁長官は中曽根康弘(当時52歳)、警察庁長官は後藤田正晴(当時56歳)である。

文学界も芸能界も、老壮青それぞれの世代にスターがいた。さらにその下にやがて芽を出す無名の青少年たちもいた。

そのなかで、最前線にして最高位にある人が、突然、死んだのである。


著者は事件があったこの日、10歳だったそうだ。記録から文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に拾い、時系列で再構築して紹介したのが本書である。

当時の各界をまたがる著名人らの関係が浮き彫りになるだけでなく、現在では大成したり、現役を退いた人たちが、この時代には社会に出たてだった頃の様子、三島事件をどのように知り、どのような反応、行動をとったかが詳しく語られる。昭和45年にタイムスリップして「この日」を疑似体験できる本なのだ。


たとえば、シンガーソングライターの松任谷由実は、当時はまだ16歳の少女である。(当時の名前は荒井由実)この日はたまたま将来ご主人になる松任谷正隆の事務所に遊びに行くために市ヶ谷を訪れていて、三島事件に遭遇したという。

また、事件によって市ヶ谷界隈の道路は大渋滞となっていた。それに巻き込まれ、自衛隊の前で動けなくなったタクシーの中に、作曲家の武満徹(当時40歳)がいた。タクシーのラジオでは事件の実況中継をしていた。この日、武満は当時自衛隊市ヶ谷駐屯地のすぐ近くのフジテレビの講堂で行われていた指揮者、小澤征爾(当時35歳)の父の葬儀に参列するために市ヶ谷に来ていたのである。小澤征爾も三島と交流があった。

三島は内閣総理大臣佐藤栄作夫妻とも親しく交際していた。三島の母、平岡倭文江と佐藤栄作の妻佐藤寛子は親友の関係にあり、二人が知り合ったのは、昭和22年、佐藤栄作が政界入りする前で運輸省の役人だった頃である。であるから、現職の総理である佐藤栄作にとっては三島の「政府に対する反乱」に対して、どのよう仕方でお悔やみを伝えればよいかはとても難しいことになった。

前年1月の東大の安田講堂事件のときは警備第一課長だった警視庁の佐々淳行(三島事件当時39歳)は、この年の9月に警務部参事官になっており、佐々は三島と家族ぐるみの付き合いをしていた。彼は三島の弟と東京大学の同期であり、佐々の姉は三島の妹と聖心女子大学の同級生であり、さらに若き日の三島のガールフレンドでもあった。そのように親しい間柄だったため、上司は佐々を三島の説得のために市ヶ谷へ向かわせた。

ザ・ドリフターズはこの日、水戸にいた。松竹映画『誰かさんと誰かさんが全員集合!!』のロケだったのだ。「8時だョ!全員集合」が始まったのは前年の10月からである。この日は偶然にも「軍服を着たいかりや長介が、ポンコツ車の上に仁王立ちになって門前に到着する」シーンのリハーサルを繰り返していた。監督の渡辺祐介(43歳)が「笑顔を見せるな、愛国者は愛国者らしく、もっとシマった顔で乗りつけろ。」と39歳のいかりやへ指示していたところに、制作主任がこっそりと三島事件を知らせた。渡辺は、「へぇ」と言ったきり絶句した。自分の演技があまりにも下手なので監督が黙り込んでしまったのではないかと思ったのか、いかりやが心配そうに、渡辺のほうにやってきた。渡辺には偶然の一致とはいえ、長介氏の軍服姿がひどく不気味だったそうだ。

ノーベル賞作家の川端康成は当時71歳。三島夫妻の仲人をつとめた人物だ。(参考動画:「川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整」)この日、川端は青山斎場で行われた細川護立の葬儀に参列していた。後の内閣総理大臣細川護熙の祖父にあたる。葬儀が終わり斎場の玄関に出てきたところで、川端は市ヶ谷での出来事を知らされた。喪服姿のまま市ヶ谷に直行することになる。その後、川端は自衛隊の裏門から出て、南馬込にある三島邸に向かう。

スーパーのダイエーの創業者、中内功は当時48歳。この日からカラーテレビを、当時としては破格の五万円台で売り出すことにしていた、ダイエー赤羽店には朝から客が押し寄せていた。この店にこの日割り当てられたのは20台しかなく、そこに350人が押し寄せたので抽選方式になる。店頭に並ぶテレビに、午後になったら何が映し出されるかは店員たちも、中内も何もしらなかった。

後に航空幕僚長になり、政府見解と異なる内容の論文を書いたために更迭され、一躍有名になる田母神俊雄は、この日はまだ防衛大学校の4年生で22歳。フィールドホッケーにのめり込んでいた体育会系で、午後の訓練を終えて学生舎に戻った時、事件を知る。そして後年、田母神は三島を次のように批判する。「実際、あの事件では、彼らを排除しようとした自衛隊員が、日本刀などで切りつけられ8人も重軽傷を負っている。自衛隊は被害者であり、同じ自衛官として、三島氏の行動に共感も同情も湧かないのは当然である。」


ごく一部の人物について断片だけを紹介させていただいた。本書ではこの他、防衛庁をはじめ警視庁、国会、総理大臣公邸、各出版社や新聞社、放送局、両親のいる三島邸で誰がどのように動いていたかが時系列に沿って書かれている。コンパクトな新書とはいえ調査の上に調査を重ねて出来上がった本である。


三島の遺作となった『豊穣の海』は最終巻「天人五衰」を月刊誌「新潮」に連載中だった。編集部の小島喜久枝は、三島事件当日の午前3時半頃、三島からの電話を受け、その日の午前10時半に最終稿を受け取ることになる。この遺作は次の4巻からなる。

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)」(英語Kindle版
奔馬 (新潮文庫―豊饒の海)」(英語Kindle版
暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)」(英語Kindle版
天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)」(英語Kindle版

   


三島由紀夫の作品、関連本: Amazonで検索

三島由紀夫の動画: YouTubeで検索


昨年、下北沢で酒を飲み、深夜タクシーに乗って帰宅したことがあった。運転手は高齢者だった。「下北沢って演劇関係の若者が多いですけど、最近の若者は本を読まなくなりましたねぇ。」という話をすると「お客さんは、どのような本を読むのですか?」と運転手は聞いてきた。「最近は理数系本から小説まであらゆる本を読んでますが、高校時代は三島由紀夫にハマっていましたね。」と僕は答えた。

すると運転手はしばらく沈黙したあと、「実はですね。私は昔、楯の会のメンバーだったのですよ。とはいってもいちばん下っ端でしたから、あの日、市ヶ谷には行きませんでしたけれどね。」

酔いは一気に冷めた。楯の会とはもちろん三島由紀夫が組織した隊員数100人ほどの私設軍隊のことである。


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昭和45年11月25日―三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃: 中川右介」(Kindle版



はじめに
プロローグ 前日の予兆
第1章 静かなる勃発
第2章 真昼の衝撃
第3章 午後の波紋
第4章 続く余韻
エピローグ「説明競争」
あとがき

登場人物及び参考文献一覧
要求書/演説/檄

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