「量子力学の数学的基礎: J.v.ノイマン」
内容紹介:
1925、6年頃にde Broglie及びSchrodingerの波動力学とHeisenberg等の量子力学とが殆ど同時にでき上がり、それらの見かけ上の大きな違いにも拘わらず形式的に同等であることが明らかになった。そしてBohrに始まる量子力学の統計的解釈が、1927、8年頃にはHeisenbergの不確定性原理やBohrの相補性の考えが根幹となって一応物理学者にとって満足すべき理論体系ができ上がった。しかし、それはまだ数学者を満足させる程まで理論的な厳密さをもって築き上げられた体系ではなかった。特にDiracのデルタ函数を使う方法は、物理的な直観によって本質的に正しいことが分かってみても、数学的にはそのまま受け入れにくかった。
このような不満足な状態を是正するために、Neumannはそれまで物理学者には縁の遠かったHilbert空間の理論を基礎におくことによって、理論的に一貫し、数学者にも受け入れられる形に量子力学を再構成することに成功した。今日では、量子力学系に対する直感的な像を描くためにも、Hilbert空間はなくてはならぬ背景にさえなってしまった。それはNewton力学の背景である三次元Euclid空間や、Einsteinの相対論の背景である四次元空間にも比すべきものである。しかし、Hilbert空間が通常の三次元ないし四次元空間と本質的に違うのは、それが量子力学系に対する観測と直接結びついている点である。実際Neumannは本書において、量子力学の数学的な基礎をあきらかにしたばかりではなく、観測の問題の精密な分析をも行い、更に進んで量子統計力学の再構成までも試みた。それ等いろいろな理由によって、本書は歴史的に重要な意義を持っているばかりでなく、今日でも理論物理学を学ぶものが一度は熟読しなければならない書物である。(湯川秀樹)
1957年11月15日刊行、376ページ。
著者について:
ヨハン・ルードヴィッヒ・ノイマン(ウィキペディアの記事)
Johann Ludwig von Neumann
1903年ハンガリーのブダペストに生れる。ベルリン大学、ブダペスト大学、チューリッヒ大学で学び、1927年ベルリン大学の私講師となる。1930年プリンストン大学講師、1931年同教授。 1933年プリンストン高級研究所の終身所員となり、1937年アメリカの市民権を取得。オペレーションズ・リサーチ、ゲームの理論、電子計算機の理論などすぐれた業績を残した。1954年アメリカ原子力委員となり、1957年ワシントンでガンのため死亡。
理数系書籍のレビュー記事は本書で333冊目。
今日は5月17日で「父の日」だ。書泉グランデMATH(@rikoushonotana)が「現代数学の父といえばヒルベルト!」とツイートしていたことになぞらえば、「数理物理学の父といえばノイマン!」、「計算機科学の父といえばノイマン!」ということになるだろう。20世紀科学史における最重要人物の一人である。
この偉大な名著は量子力学を学び始めた10年ほど前から読みたいと思っていた本のひとつだ。明倫館書店で何度ページをめくったことだろう。そのたびに「今の僕には無理そうだ。」と棚に戻していた。初めて本書のタイトルを見たとき「量子力学を学ぶために必要な数学の基礎を解説した本」、いわゆる物理数学の本だと勘違いしたことも告白しておこう。
特筆すべきはこの本の原著が書かれたのがノイマンが29歳のとき、1932年のことである。ハイゼンベルクが行列力学による定式化をしたのが1925年、シュレディンガーが波動力学による定式化をしたのが1926年、そしてアインシュタインとボーアが第5回ソルヴェイ会議で科学史に残る論争を繰り広げたのが1927年であったことを思い起こしてほしい。
さらに言えばディラックが相対論的定式化をしたのが1928年、その定式化から予言された陽電子がアンダーソンにより発見されたのが1932年である。いくつかの解釈をめぐる難問を残しつつ、量子力学がこの世界に実体を現し始めて間もないことに本書はドイツ語で刊行された。
解釈をめぐる問題のひとつ、波動関数の実在性の有無についてはつい先日「早大、“波動関数の顕微鏡”を実現 アト秒レーザーで位相区別、電子波動関数の直接可視化に成功」という記事で触れたばかりだ。
波動関数の実在性の有無はともかく、当時対立していた波動性と粒子性それぞれの定式化をめぐり、ノイマンは両者の同等性を抽象ヒルベルト空間というクラスの数学を用いて世界で初めて証明し、その詳細をこの1冊の本にまとめたのである。物理法則に数学的基礎付けを行う数理物理学の威力を印象付ける本なのだ。
日本語版が刊行されたのは奇しくもノイマンが没したのと同じ1957年。その年の2月8日にノイマンは亡くなっており、日本語版は11月15日に刊行されている。
量子力学の数学的な定式化、ヒルベルト空間による定式化に関して、僕はこれまで次のような本を読んでいる。ノイマン以降の研究成果を整理した形で学ぶのであれば、これらの本をお読みになるとよいだろう。
ヒルベルト空間と量子力学:新井朝雄(改訂版が刊行されている。)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/fa4d9da634afbdb8a9dfc1ac162f7afe
量子力学の数学的構造 I:新井朝雄、江沢洋
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/196b59dc50fca361ba523036e7eeb908
量子力学の数学的構造 II:新井朝雄、江沢洋
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a4ef01e94a8c0384cec353ebe4d542e4
「量子力学の数学的基礎: J.v.ノイマン」は本編だけで350ページほど。上記の新井先生、江沢先生の教科書よりも記述されている範囲が広い。主に上記の3つの教科書の範囲はノイマン博士のI.とII.に相当している。以下は本書の章立てだ。
I. 序論的考察
II. 抽象ヒルベルト空間(H.R.)の一般論
III. 量子力学の統計
IV. 理論の演繹的構成
V. 一般的考察
VI. 測定の過程
まず関数解析の初歩、ヒルベルト空間の数学的定義が紹介される。複素無限次元の線形ベクトル空間だ。無限次元では有限次元での線形代数で成り立つ固有値の理論を無条件に受け入れるわけにはいかない。行列力学に対しては離散変数をとる固有値問題、波動力学に対しては連続変数をとる積分核を行列とみなす固有値問題として記述する。しかしながら後者において利用されたディラックによるδ関数をノイマンは「フィクション」、「普通でないしろもの」だとして、I.序論的考察の章では追及をいったん中断する。
II.抽象ヒルベルト空間(H.R.)の一般論の章で2つの定式化を両方とも含み、一義的な議論をすることができる抽象ヒルベルト空間を定義し、行列力学と波動力学の同等性を証明するわけである。この章でその証明は完結する。
関数解析は「関数解析 共立数学講座 (15):黒田成俊」で学んでいたので、最初の100ページほどはなんとか読み進むことができた。しかし、その後は読み進めるうちにしんどくなっていくのだ。数式そのものは難しくはないのだが、緻密な論理の積み重ねと途中で生じる場合分けの繰り返しによって話の道筋が見えにくくなるのだ。毎日少しずつ読んでいたため、それまでに読んだ内容や条件を忘れていることがあり、行きつ戻りつしているうちに混乱を深めていく。本書全体を通じ、僕が理解度は60パーセント止まりだった。
それでも読み終えることができたのは本書の記述スタイルのおかげだった。ノイマン博士の思考過程、心の動きがわかるような文章が多いので、どこが大切なのか、何について問題だと感じているのかが手に取るようにわかるからだ。それでも読み取れる試行錯誤的な記述は天才数学者によるものだから、僕のような凡人には理解が及ばないところがある。
しかし、波動力学と行列力学の定式化の同等性が証明されたとはいえ、それは物理学者が導いた数式の間の同等性であり、現実の物理世界との関わり方が明らかになったわけではない。本書の後半では、それを解明するための数学的試みが展開される。
それはIII. 量子力学の統計の章から始まる記述である。多粒子系の量子の振る舞いから現実に観測される物理量が決まるかどうか、不確定性原理で示される共役な物理量についての考察、特殊相対論を加味した考察など離散変数、連続変数のケース、そして両者が混合したケースでの確率論的な検証が進められる。
IV. 理論の演繹的構成の章では統計的理論自体の原理的基礎づけをする。この章により集団として振る舞う量子がもたらす統計的理論とII.抽象ヒルベルト空間(H.R.)で解説したエルミート作用素の関連が示される。
V. 一般的考察の章では古典物理、特に古典統計力学を量子状態に適用した理論が展開される。ボルツマン方程式、マクスウェル分布、理想気体の状態方程式、エントロピー、可逆性と不可逆性など大学初年度で学ぶ統計力学の知識が量子の世界でエルゴード性も含めて検証されるのだ。ただし、本書では統計力学とは呼ばずに熱力学的考察として書かれている。量子系でもエントロピーは減少することはないし、その増加はゼロまたは正であることが確認される。
VI. 測定の過程の章は量子系の時間発展を抽象ヒルベルト空間(H.R.)で基礎づける内容、そして測定により量子系はどのような影響を受けるか、測定過程そのものに対する分析を論じている。
後半を読んだとき僕は解説されている事柄がそのまま現代の情報理論、特に量子情報理論、量子コンピュータの理論、ブラックホールの熱力学などに結びついていることに気が付いた。そして大学3年のときに教えていただいた梅垣寿春先生の研究対象であることを思い出した。
梅垣先生は東工大の工学部を定年退官されてから僕が学んでいた東京理科大で教鞭をとり始めたばかり。大学3年のとき履修していた先生の「応用関数解析」という科目は1985年に週一で行われていた。その授業で使われていたのが先生がその年にお書きになったばかりの「作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数」だった。
「作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数」(目次1、目次2、目次3)
そしてその2年前の1983年に梅垣先生が弟子の大矢雅則先生とともにお書きになったのが「確率論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 1」と「量子論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 2」である。
「確率論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 1」(目次)
「量子論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 2」(目次)
この2冊こそノイマン博士の研究内容のその後の姿であり、目次を見ておわかりのように熱力学的エントロピーと情報論的エントロピーの理論を解説した本だ。そしてこの2冊の本編の理解に欠かせない数学の解説が付章に掲載し、それを詳しく解説したのが梅垣先生の授業で使われた「作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数」だったのである。
その後、量子情報理論は工学的に実現され量子コンピュータとして誕生しつつある。僕もつい先日「クラウド量子計算入門: 中山茂」を読み、実際に自分の手で試したばかりである。
ノイマン博士の「量子力学の数学的基礎」が1985年の学生時代に恩師がお書きになった教科書を経て現在僕が学びつつある量子コンピュータの世界にようやくつながった。
量子力学は全く知らず、関数解析の初歩さえ理解していなかった大学3年の僕に梅垣先生の著書はちんぷんかんぷんで、何のために学んでいるかすらわかっていなかった理由は今になってみるとよくわかる。そして先生が何に関心をもち、どのような研究をされていたのかをやっと理解することができた。
先生の授業を受けていたときの様子は「25年目にわかった真実」という記事で紹介したが、今回ノイマン博士の著作を読んだことで、学生時代の不勉強を読者のみなさんに露呈する結果となっているのだ。
大きく空いたこの知識の間隙を僕はいずれ埋めることができるのだろうか?
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
「量子力学の数学的基礎: J.v.ノイマン」
序 湯川秀樹
序 彌永昌吉
序論
I. 序論的考察
- 変換理論の成立
- 量子力学の最初の定式化
- 両理論の同等性:変換理論
- 両理論の同等性:ヒルベルト空間
II. 抽象ヒルベルト空間(H.R.)の一般論
- H.R.の定義
- H.R.の幾何学
- 条件 A.-E.についての補論
- 閉じた線型多様体
- ヒルベルト空間の作用素
- 固有値問題
- 続き
- 固有値問題への予備的考察
- 固有値問題の解とその一意性
- 交換可能な作用素
- スプール(英語ではトレースのこと)
III. 量子力学の統計
- 量子力学の統計的命題
- 統計的解釈
- 同時測定の可能性および測定可能性一般
- 不確定性関係
- 命題としての射影作用素
- 輻射の理論
IV. 理論の演繹的構成
- 統計理論の原理的基礎付け
- 統計的公式の証明
- 測定結果から導かれる集団
V. 一般的考察
- 測定と可逆性
- 熱力学的考察
- 可逆性および平衡の問題
- 巨視的観測
VI. 測定の過程
- 問題の定式化
- 合成系
- 測定過程の分析
訳者あとがき
人名索引
事項索引
内容紹介:
1925、6年頃にde Broglie及びSchrodingerの波動力学とHeisenberg等の量子力学とが殆ど同時にでき上がり、それらの見かけ上の大きな違いにも拘わらず形式的に同等であることが明らかになった。そしてBohrに始まる量子力学の統計的解釈が、1927、8年頃にはHeisenbergの不確定性原理やBohrの相補性の考えが根幹となって一応物理学者にとって満足すべき理論体系ができ上がった。しかし、それはまだ数学者を満足させる程まで理論的な厳密さをもって築き上げられた体系ではなかった。特にDiracのデルタ函数を使う方法は、物理的な直観によって本質的に正しいことが分かってみても、数学的にはそのまま受け入れにくかった。
このような不満足な状態を是正するために、Neumannはそれまで物理学者には縁の遠かったHilbert空間の理論を基礎におくことによって、理論的に一貫し、数学者にも受け入れられる形に量子力学を再構成することに成功した。今日では、量子力学系に対する直感的な像を描くためにも、Hilbert空間はなくてはならぬ背景にさえなってしまった。それはNewton力学の背景である三次元Euclid空間や、Einsteinの相対論の背景である四次元空間にも比すべきものである。しかし、Hilbert空間が通常の三次元ないし四次元空間と本質的に違うのは、それが量子力学系に対する観測と直接結びついている点である。実際Neumannは本書において、量子力学の数学的な基礎をあきらかにしたばかりではなく、観測の問題の精密な分析をも行い、更に進んで量子統計力学の再構成までも試みた。それ等いろいろな理由によって、本書は歴史的に重要な意義を持っているばかりでなく、今日でも理論物理学を学ぶものが一度は熟読しなければならない書物である。(湯川秀樹)
1957年11月15日刊行、376ページ。
著者について:
ヨハン・ルードヴィッヒ・ノイマン(ウィキペディアの記事)
Johann Ludwig von Neumann
1903年ハンガリーのブダペストに生れる。ベルリン大学、ブダペスト大学、チューリッヒ大学で学び、1927年ベルリン大学の私講師となる。1930年プリンストン大学講師、1931年同教授。 1933年プリンストン高級研究所の終身所員となり、1937年アメリカの市民権を取得。オペレーションズ・リサーチ、ゲームの理論、電子計算機の理論などすぐれた業績を残した。1954年アメリカ原子力委員となり、1957年ワシントンでガンのため死亡。
理数系書籍のレビュー記事は本書で333冊目。
今日は5月17日で「父の日」だ。書泉グランデMATH(@rikoushonotana)が「現代数学の父といえばヒルベルト!」とツイートしていたことになぞらえば、「数理物理学の父といえばノイマン!」、「計算機科学の父といえばノイマン!」ということになるだろう。20世紀科学史における最重要人物の一人である。
この偉大な名著は量子力学を学び始めた10年ほど前から読みたいと思っていた本のひとつだ。明倫館書店で何度ページをめくったことだろう。そのたびに「今の僕には無理そうだ。」と棚に戻していた。初めて本書のタイトルを見たとき「量子力学を学ぶために必要な数学の基礎を解説した本」、いわゆる物理数学の本だと勘違いしたことも告白しておこう。
特筆すべきはこの本の原著が書かれたのがノイマンが29歳のとき、1932年のことである。ハイゼンベルクが行列力学による定式化をしたのが1925年、シュレディンガーが波動力学による定式化をしたのが1926年、そしてアインシュタインとボーアが第5回ソルヴェイ会議で科学史に残る論争を繰り広げたのが1927年であったことを思い起こしてほしい。
さらに言えばディラックが相対論的定式化をしたのが1928年、その定式化から予言された陽電子がアンダーソンにより発見されたのが1932年である。いくつかの解釈をめぐる難問を残しつつ、量子力学がこの世界に実体を現し始めて間もないことに本書はドイツ語で刊行された。
解釈をめぐる問題のひとつ、波動関数の実在性の有無についてはつい先日「早大、“波動関数の顕微鏡”を実現 アト秒レーザーで位相区別、電子波動関数の直接可視化に成功」という記事で触れたばかりだ。
波動関数の実在性の有無はともかく、当時対立していた波動性と粒子性それぞれの定式化をめぐり、ノイマンは両者の同等性を抽象ヒルベルト空間というクラスの数学を用いて世界で初めて証明し、その詳細をこの1冊の本にまとめたのである。物理法則に数学的基礎付けを行う数理物理学の威力を印象付ける本なのだ。
日本語版が刊行されたのは奇しくもノイマンが没したのと同じ1957年。その年の2月8日にノイマンは亡くなっており、日本語版は11月15日に刊行されている。
量子力学の数学的な定式化、ヒルベルト空間による定式化に関して、僕はこれまで次のような本を読んでいる。ノイマン以降の研究成果を整理した形で学ぶのであれば、これらの本をお読みになるとよいだろう。
ヒルベルト空間と量子力学:新井朝雄(改訂版が刊行されている。)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/fa4d9da634afbdb8a9dfc1ac162f7afe
量子力学の数学的構造 I:新井朝雄、江沢洋
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/196b59dc50fca361ba523036e7eeb908
量子力学の数学的構造 II:新井朝雄、江沢洋
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/a4ef01e94a8c0384cec353ebe4d542e4
「量子力学の数学的基礎: J.v.ノイマン」は本編だけで350ページほど。上記の新井先生、江沢先生の教科書よりも記述されている範囲が広い。主に上記の3つの教科書の範囲はノイマン博士のI.とII.に相当している。以下は本書の章立てだ。
I. 序論的考察
II. 抽象ヒルベルト空間(H.R.)の一般論
III. 量子力学の統計
IV. 理論の演繹的構成
V. 一般的考察
VI. 測定の過程
まず関数解析の初歩、ヒルベルト空間の数学的定義が紹介される。複素無限次元の線形ベクトル空間だ。無限次元では有限次元での線形代数で成り立つ固有値の理論を無条件に受け入れるわけにはいかない。行列力学に対しては離散変数をとる固有値問題、波動力学に対しては連続変数をとる積分核を行列とみなす固有値問題として記述する。しかしながら後者において利用されたディラックによるδ関数をノイマンは「フィクション」、「普通でないしろもの」だとして、I.序論的考察の章では追及をいったん中断する。
II.抽象ヒルベルト空間(H.R.)の一般論の章で2つの定式化を両方とも含み、一義的な議論をすることができる抽象ヒルベルト空間を定義し、行列力学と波動力学の同等性を証明するわけである。この章でその証明は完結する。
関数解析は「関数解析 共立数学講座 (15):黒田成俊」で学んでいたので、最初の100ページほどはなんとか読み進むことができた。しかし、その後は読み進めるうちにしんどくなっていくのだ。数式そのものは難しくはないのだが、緻密な論理の積み重ねと途中で生じる場合分けの繰り返しによって話の道筋が見えにくくなるのだ。毎日少しずつ読んでいたため、それまでに読んだ内容や条件を忘れていることがあり、行きつ戻りつしているうちに混乱を深めていく。本書全体を通じ、僕が理解度は60パーセント止まりだった。
それでも読み終えることができたのは本書の記述スタイルのおかげだった。ノイマン博士の思考過程、心の動きがわかるような文章が多いので、どこが大切なのか、何について問題だと感じているのかが手に取るようにわかるからだ。それでも読み取れる試行錯誤的な記述は天才数学者によるものだから、僕のような凡人には理解が及ばないところがある。
しかし、波動力学と行列力学の定式化の同等性が証明されたとはいえ、それは物理学者が導いた数式の間の同等性であり、現実の物理世界との関わり方が明らかになったわけではない。本書の後半では、それを解明するための数学的試みが展開される。
それはIII. 量子力学の統計の章から始まる記述である。多粒子系の量子の振る舞いから現実に観測される物理量が決まるかどうか、不確定性原理で示される共役な物理量についての考察、特殊相対論を加味した考察など離散変数、連続変数のケース、そして両者が混合したケースでの確率論的な検証が進められる。
IV. 理論の演繹的構成の章では統計的理論自体の原理的基礎づけをする。この章により集団として振る舞う量子がもたらす統計的理論とII.抽象ヒルベルト空間(H.R.)で解説したエルミート作用素の関連が示される。
V. 一般的考察の章では古典物理、特に古典統計力学を量子状態に適用した理論が展開される。ボルツマン方程式、マクスウェル分布、理想気体の状態方程式、エントロピー、可逆性と不可逆性など大学初年度で学ぶ統計力学の知識が量子の世界でエルゴード性も含めて検証されるのだ。ただし、本書では統計力学とは呼ばずに熱力学的考察として書かれている。量子系でもエントロピーは減少することはないし、その増加はゼロまたは正であることが確認される。
VI. 測定の過程の章は量子系の時間発展を抽象ヒルベルト空間(H.R.)で基礎づける内容、そして測定により量子系はどのような影響を受けるか、測定過程そのものに対する分析を論じている。
後半を読んだとき僕は解説されている事柄がそのまま現代の情報理論、特に量子情報理論、量子コンピュータの理論、ブラックホールの熱力学などに結びついていることに気が付いた。そして大学3年のときに教えていただいた梅垣寿春先生の研究対象であることを思い出した。
梅垣先生は東工大の工学部を定年退官されてから僕が学んでいた東京理科大で教鞭をとり始めたばかり。大学3年のとき履修していた先生の「応用関数解析」という科目は1985年に週一で行われていた。その授業で使われていたのが先生がその年にお書きになったばかりの「作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数」だった。
「作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数」(目次1、目次2、目次3)
そしてその2年前の1983年に梅垣先生が弟子の大矢雅則先生とともにお書きになったのが「確率論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 1」と「量子論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 2」である。
「確率論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 1」(目次)
「量子論的エントロピー―情報理論の函数解析的基礎 2」(目次)
この2冊こそノイマン博士の研究内容のその後の姿であり、目次を見ておわかりのように熱力学的エントロピーと情報論的エントロピーの理論を解説した本だ。そしてこの2冊の本編の理解に欠かせない数学の解説が付章に掲載し、それを詳しく解説したのが梅垣先生の授業で使われた「作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数」だったのである。
その後、量子情報理論は工学的に実現され量子コンピュータとして誕生しつつある。僕もつい先日「クラウド量子計算入門: 中山茂」を読み、実際に自分の手で試したばかりである。
ノイマン博士の「量子力学の数学的基礎」が1985年の学生時代に恩師がお書きになった教科書を経て現在僕が学びつつある量子コンピュータの世界にようやくつながった。
量子力学は全く知らず、関数解析の初歩さえ理解していなかった大学3年の僕に梅垣先生の著書はちんぷんかんぷんで、何のために学んでいるかすらわかっていなかった理由は今になってみるとよくわかる。そして先生が何に関心をもち、どのような研究をされていたのかをやっと理解することができた。
先生の授業を受けていたときの様子は「25年目にわかった真実」という記事で紹介したが、今回ノイマン博士の著作を読んだことで、学生時代の不勉強を読者のみなさんに露呈する結果となっているのだ。
大きく空いたこの知識の間隙を僕はいずれ埋めることができるのだろうか?
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
「量子力学の数学的基礎: J.v.ノイマン」
序 湯川秀樹
序 彌永昌吉
序論
I. 序論的考察
- 変換理論の成立
- 量子力学の最初の定式化
- 両理論の同等性:変換理論
- 両理論の同等性:ヒルベルト空間
II. 抽象ヒルベルト空間(H.R.)の一般論
- H.R.の定義
- H.R.の幾何学
- 条件 A.-E.についての補論
- 閉じた線型多様体
- ヒルベルト空間の作用素
- 固有値問題
- 続き
- 固有値問題への予備的考察
- 固有値問題の解とその一意性
- 交換可能な作用素
- スプール(英語ではトレースのこと)
III. 量子力学の統計
- 量子力学の統計的命題
- 統計的解釈
- 同時測定の可能性および測定可能性一般
- 不確定性関係
- 命題としての射影作用素
- 輻射の理論
IV. 理論の演繹的構成
- 統計理論の原理的基礎付け
- 統計的公式の証明
- 測定結果から導かれる集団
V. 一般的考察
- 測定と可逆性
- 熱力学的考察
- 可逆性および平衡の問題
- 巨視的観測
VI. 測定の過程
- 問題の定式化
- 合成系
- 測定過程の分析
訳者あとがき
人名索引
事項索引