「マイクロコンピュータの誕生―わが青春の4004:嶋正利」
内容:
世界最初の4ビットのマイクロプロセッサ4004はアメリカのインテル社で開発されたが、その過程には日本人が深く関わっていた。まさにその当人である著者は、その後一世を風靡した8ビットのZ80をはじめ、Z8000などの設計・開発にたずさわった。このような体験をもとに、マイクロコンピュータがどのようにして誕生し、発展したのかを、エピソードをまじえて熱っぽく語る。1987年刊行、著者が44歳のときにお書きになった本である。
著者略歴(1987年、本書出版当時の情報)
嶋正利(ウィキペディア)
1943年生れ、1967年東北大学理学部化学第二学科を卒業。ビジコン社に入社後渡米し、インテル社で世界初のマイクロプロセッサ4004の開発に参加した。1972年にはインテル社に入社し、8080の開発に従事。また1975年にはザイログ社に移ってZ80、Z8000を開発した。1980年、インテル・ジャパンのデザイン・センター所長として帰国。1986年にブイ・エム・テクノロジー社を設立し、新しいマイクロプロセッサの開発にとりくんでいる。
理数系書籍のレビュー記事は本書で228冊目。(CPUは電子工学系だが広い意味で理系としておく。)
奇しくも今日8月22日は本書をお書きになった嶋正利先生の誕生日で、先生は古希(70歳)をむかえられている。心より嶋先生にお祝いを申し上げます。
これまで紹介してきた安田寿明先生がマイ・コンピュータを自作できたのも、そしてコンピュータが小型化し、パソコンやスマートフォンとして世界中の人々が使えるようになったのもCPU(中央演算処理装置)やその周辺チップ(LSI)が開発されたおかげである。(参考記事:「安田寿明先生の「マイ・コンピュータ」3部作(ブルーバックス)」)
今日紹介するのは世界初のCPU Intel 4004 (1971)の開発に深くかかわった嶋正利先生によって書かれた自伝本だ。1969年、若干25歳のときにビジコン社の子会社の社員として渡米し、予想もしなかった世界初のCPUの開発に深くかかわることになったのだ。若き日のご苦労とご活躍、そしてその後10年に渡るCPU開発の現場経験を熱く語った回想録である。
Intel 4004 (1971)の内部回路(クリックで拡大)
僕が本書に興味をもったのは、もちろん技術的な興味からで安田先生のマイコン3部作を読んだことがきっかけだった。しかし、読み進むうちにこの本は技術書であると同時に、ビジネス・マインドを伝える本であることに気づかせられた。若い技術者が海外で働くときにどういう問題に直面し、どのように解決していったかがリアルに伝わってくる。もし自分ならどういう行動をとるだろうか?そのような読み方をすると得るもの多しという本なのだ。
章立ては次のとおり。(詳細目次はこのページの最後に書いておいた。)
第1章:マイクロコンピュータ誕生の背景
第2章:電卓用汎用LSIの開発
第3章:マイクロコンピュータのアイデアの出現
第4章:世界初のマイクロプロセッサ4004の設計と誕生
第5章:8080の開発
第6章:Z80の開発
第7章:Z8000の開発
第8章:これからのマイクロプロセッサ
世界初の汎用コンピュータは1940年代には開発されていたし(参考記事:
「真空管式コンピュータへのノスタルジア(EDSAC, 1949年)」)、1969年に人類を初めて月に送ったアポロ11号にも初期の集積回路(IC)を使った小型のアポロ誘導コンピュータが搭載されていた。
「IPSコンピュータ博物館」のページを見ると1950年代の終わりにはOSが開発されていたことがわかる。科学技術計算用のFORTRANや事務計算用のCOBOLなどのプログラミング言語が考案されたのも1950年代後半のことだ。トランジスタを使って作られた大型コンピュータは会社や大学で普通に使われていた。
著者の大学での専攻は化学なのでコンピュータや計算機とは関係ない。半導体技術にしてもそれは物性物理の範疇だ。だから新卒社員としてビジコン社という計算機メーカーに入社したとき、彼は素人同然だった。
1969年当時はIC電卓からLSI電卓への移行期である。カシオや早川電機(現シャープ)をはじめ大小さまざまなメーカーが開発競争を繰り広げていた。機械式計算機メーカーとして成長してきたビジコン社もそのうちのひとつである。嶋先生は同社の「プリンタ付き電卓」という新製品に組み込むLSIを開発、製造してもらうために当時の社員数500人ほどの半導体メーカー、インテル社に数名の技術者うちのひとりとして派遣されたのだ。入社して2年しかたっていない。そこに数々の困難が待ち受けていることを先生は予想だにしていなかった。
大多数のメーカーが電卓の回路として採用していたのは「ランダム論理」というもので計算手順をすべてAND、OR、NOT、NORなどの論理ゲートの組み合わせで電子部品を配線するものだった。電卓は何かキーが押されるたびに内部の状態が推移していくのだが、その状態推移や計算そのものをすべて電子素子の回路として実現していたわけである。(参考記事:「電卓を作りたいという妄想」)
それに対してビジコン社の電卓はキー操作による状態推移や計算自体をマクロ化した「プログラム論理」を採用していた。つまりコンピュータ化しやすい設計方針だったのである。このことが後にインテル社と組むことでCPU開発の大きなメリットになった。
インテル社に着き、嶋先生が開発依頼の窓口として紹介されたのがホフという31歳の技術者だった。ところがホフをはじめ、インテル社はビジコン社側からのLSI開発依頼にまったく興味を示してくれなかった。
「これはどういうことか?」
嶋先生は焦った。
先生はビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのように社長ではなく中堅会社の平社員に過ぎない。ホフについても同様だ。つまり意思決定するためにその都度上司の判断を仰がなければならないということだ。さらに嶋先生にとっては人生初の海外生活で英会話にも自信がなかったそうだ。渡米直後にいきなり大問題に直面してしまったわけである。
この段階でビジコン社の提案は「LSI電卓」であり、CPUという発想は世界中の誰も思いついていなかった。とにかく電卓の設計方針を詳しく説明して、納得してもらうことから始めなければならない。
その後、嶋先生がどのような奮闘を経て世界初のCPU Intel 4004(1971)や、8080(1974)、ザイログ社のZ80(1976)、Z8000(1979)などのCPUとそれらの周辺LSI(ファミリーLSI)の開発に貢献していったかという話が続く。でもそれはとても長い話になるので、本書やウィキペディアの「嶋正利」の項目をお読みいただきたい。
CPUのアイデア自体はホフによるものだ。しかし依頼者の立場から一転して共同開発者になった嶋先生の協力なしにCPUを完成させることはできなかった。
残念ながら本書は絶版なので中古本をお買い求めになるか図書館を利用していただきたい。(復刊リクエストにご協力いただける方はこちらからお願いします。)
CPUは内部演算回路やデータパスで扱うビット数が増えるに従い、コンピュータの使用用途が拡大する。
- 4ビットCPU (例:Intel 4004):10進数計算用、電卓用、簡単な機器制御用
- 8ビットCPU(例:Intel 8080, Zilog Z80):文字の入出力、簡単な図形表示、OSの実装、BASICや各種の高級プログラミング言語
- 16ビットCPU (例:Zilog Z8000):高品質なグラフィック処理、写真
またCPUに詰め込まれる素子数(総トランジスタ数)もビット数が増加すると次のように増えていく。CPU以外にも周辺LSIもあるから素子数は膨大だ。
- 4ビットCPU (Intel 4004):2,300
- 8ビットCPU(Intel 8080):4,800
- 8ビットCPU(Zilog Z80):8,200
- 16ビットCPU (Intel 8086):20,000 (29,000)
- 16ビットCPU (Zilog Z8000):17,500
中略
- 64ビットCPU (Intel Core i7プロセッサー): 7億3100万個
参考:CPUの素子数の変化(Intel 4004から最新のCore i7まで、画像クリックで拡大)
http://japan.intel.com/contents/museum/processor/index.html
CPUや周辺LSIの開発手順は大まかに次のようになる。
- 仕様決定
- 論理設計
- 回路設計
- 回路のマスクパターンのレイアウトと検査
- シリコン・ウェハーの製造
- シリコン・ウェハー上での検査、動作確認
- 周辺LSIと組み合わせて動作確認、デバッグ
- 量産用試作CPUの製造
- 量産開始
嶋先生やホフのCPU開発は世界で初めてのことである。設計から検査まですべて初めて経験することばかりでそのための機械はなく、自分で作るか目視で検査するしかない。
人間の目や手で設計や検査ができるのは、どんなにがんばっても8ビットCPUまでなのだそうだ。もちろんミスも発生する。本書には「気の狂うような作業」で精魂尽き果てたことも書かれている。
「もし動かなかったらどうしよう。。。」
スケジュールを気にしながら最後の最後までものすごいプレッシャーを受けながら黙々と作業を続けるわけである。
CPUというアイデアだけではどうにもならない。実現するためには並々ならぬご苦労があったのだ。
このように完成できるかできないか最後になるまでわからない創造的な新製品を中堅の企業が業務として仕様を決定し、開発していくプロセスに僕は新鮮な驚きを覚えた。ふつう会社の業務は経営陣の決定してトップダウンの命令によって行われるからだ。(もちろんトップダウンの意思決定はその都度あったと思う。)
当事のインテル社は巨大企業IBMのように多額の投資を研究開発費に投じていた企業ではないし、嶋先生やホフの立場はマイクロソフト社やアップル社の社長にようにみずから自由な意思決定ができたわけではない。売り上げ見込みがどの程度立つかわからない状況で、このようなチャレンジがよく続けられたものだと僕は思った。
実際CPUのビジネスに将来性があることがインテル社の経営陣に理解されたのは、4004の完成からやっと2年後、8080の開発がスタートする頃だったのだ。
嶋先生は今日70歳になられたばかりだが、先生の共同開発者としてCPU開発に貢献された技術者も、すでにご高齢になられている。ウィキペディアの記事によるとその後もご活躍されていること、お二人とも2009年にアメリカ国家技術賞を受賞されていることがわかる。
テッド・ホフ:76歳(ウィキペディアの記事)
フェデリコ・ファジン:72歳(ウィキペディアの記事)
関連ページ:
コンピュータ偉人伝(嶋正利)
http://www.ijinden.com/_c_16/Shima_Masatoshi.html
マイクロコンピュータは誰が創ったの?
http://www.picfun.com/cpu02.html
ところで個人でCPUのチップを製造できるはずがないことは百も承知であるが、ICを組み合わせてなら作ることをご存知だろうか。有名なのは中日電工さんの「MYCPU80組立キット」だが、相当な電子工作の経験が要求される。
もっと簡単に作れないものか。。。僕が気になっているのはこの本だ。アマゾンではレビューも50人以上投稿されていて、すこぶる評判がよい。この本で作るのは4ビットのCPUである。
「CPUの創りかた:渡波郁」
関連記事:
安田寿明先生の「マイ・コンピュータ」3部作(ブルーバックス)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e54e4eb38380ff2ff2f51747ca7b4f75
NEC TK-80やワンボードマイコンのこと
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/36db2417701c58efa1ac81343e70227b
真空管式コンピュータへのノスタルジア(EDSAC)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/14c9aeedfcda78c9fd9ff4b677435283
ファインマン計算機科学:ファインマン, A.ヘイ, R.アレン
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/4f7f453019fd463ed2bfdeaa7b288d79
量子コンピュータ入門:宮野健次郎、古澤明
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/ef75709187cf4b35a12f2d9fdf73a320
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「マイクロコンピュータの誕生―わが青春の4004:嶋正利」
まえがき
第1章:マイクロコンピュータ誕生の背景
- マイクロコンピュータとは何か
- 電子式卓上計算器の登場と発展
- 半導体論理素子技術の登場と発展
- ビジコン社へ入社
- ハードウェア・アーキテクチャの発展
- LSI電卓発表の衝撃
第2章:電卓用汎用LSIの開発
- ビジコン社とインテル社との開発契約
- プロジェクトチームの結成と渡米
- ホフの登場
- インテル社
- プログラム論理方式の電卓用汎用LSI開発の提案
- 他社の動向とアメリカ生活
- 暗礁に乗り上げる
第3章:マイクロコンピュータのアイデアの出現
- ホフのアイデア
- 「4ビットのCPU」の採用へ
- ホフのアイデアはどこから来たか?
- マイクロコンピュータ・システムの構築
- 一時帰国へ
第4章:世界初のマイクロプロセッサ4004の設計と誕生
- ファジンの登場
- 発注者が設計の助っ人に
- マイクロプロセッサの設計
- ヨーロッパで市場調査をして帰国
- マイコン電卓一発始動
- 4004 CPU開発以後
第5章:8080の開発
- ミニコン技術の習得
- インテル社からの誘い
- 再びインテルへ
- 最大のヒット商品8080の開発へ
- 新型NMOSプロセスの登場
- 8080の目標と設計ゴール
- 8か月で設計完了
- 8080が完成し爆発的に売れた
- 2種類の8080
- 8080の生産移行と周辺LSIの開発
- ファジンとアンガーマンの退社
第6章:Z80の開発
- フロッピー・ディスクとDRAMの大量生産化
- ザイログ社設立に参加
- Z80マイクロプロセッサ開発のゴール
- Z80のハードウェア・アーキテクチャ
- わずか9か月で最初のウェーハが得られた
第7章:Z8000の開発
- 16ビット・マイクロプロセッサの開発競争
- 難しかったZ8000の開発
- Z8000とは何か
- デバッグの方法も変わった
第8章:これからのマイクロプロセッサ
- 開発からの引退と帰国
- これからのLSI開発
- 失敗しないための方法論
あとがき
- 新世代マイクロプロセッサ開発と現役復帰
参考文献
人名索引
内容:
世界最初の4ビットのマイクロプロセッサ4004はアメリカのインテル社で開発されたが、その過程には日本人が深く関わっていた。まさにその当人である著者は、その後一世を風靡した8ビットのZ80をはじめ、Z8000などの設計・開発にたずさわった。このような体験をもとに、マイクロコンピュータがどのようにして誕生し、発展したのかを、エピソードをまじえて熱っぽく語る。1987年刊行、著者が44歳のときにお書きになった本である。
著者略歴(1987年、本書出版当時の情報)
嶋正利(ウィキペディア)
1943年生れ、1967年東北大学理学部化学第二学科を卒業。ビジコン社に入社後渡米し、インテル社で世界初のマイクロプロセッサ4004の開発に参加した。1972年にはインテル社に入社し、8080の開発に従事。また1975年にはザイログ社に移ってZ80、Z8000を開発した。1980年、インテル・ジャパンのデザイン・センター所長として帰国。1986年にブイ・エム・テクノロジー社を設立し、新しいマイクロプロセッサの開発にとりくんでいる。
理数系書籍のレビュー記事は本書で228冊目。(CPUは電子工学系だが広い意味で理系としておく。)
奇しくも今日8月22日は本書をお書きになった嶋正利先生の誕生日で、先生は古希(70歳)をむかえられている。心より嶋先生にお祝いを申し上げます。
これまで紹介してきた安田寿明先生がマイ・コンピュータを自作できたのも、そしてコンピュータが小型化し、パソコンやスマートフォンとして世界中の人々が使えるようになったのもCPU(中央演算処理装置)やその周辺チップ(LSI)が開発されたおかげである。(参考記事:「安田寿明先生の「マイ・コンピュータ」3部作(ブルーバックス)」)
今日紹介するのは世界初のCPU Intel 4004 (1971)の開発に深くかかわった嶋正利先生によって書かれた自伝本だ。1969年、若干25歳のときにビジコン社の子会社の社員として渡米し、予想もしなかった世界初のCPUの開発に深くかかわることになったのだ。若き日のご苦労とご活躍、そしてその後10年に渡るCPU開発の現場経験を熱く語った回想録である。
Intel 4004 (1971)の内部回路(クリックで拡大)
僕が本書に興味をもったのは、もちろん技術的な興味からで安田先生のマイコン3部作を読んだことがきっかけだった。しかし、読み進むうちにこの本は技術書であると同時に、ビジネス・マインドを伝える本であることに気づかせられた。若い技術者が海外で働くときにどういう問題に直面し、どのように解決していったかがリアルに伝わってくる。もし自分ならどういう行動をとるだろうか?そのような読み方をすると得るもの多しという本なのだ。
章立ては次のとおり。(詳細目次はこのページの最後に書いておいた。)
第1章:マイクロコンピュータ誕生の背景
第2章:電卓用汎用LSIの開発
第3章:マイクロコンピュータのアイデアの出現
第4章:世界初のマイクロプロセッサ4004の設計と誕生
第5章:8080の開発
第6章:Z80の開発
第7章:Z8000の開発
第8章:これからのマイクロプロセッサ
世界初の汎用コンピュータは1940年代には開発されていたし(参考記事:
「真空管式コンピュータへのノスタルジア(EDSAC, 1949年)」)、1969年に人類を初めて月に送ったアポロ11号にも初期の集積回路(IC)を使った小型のアポロ誘導コンピュータが搭載されていた。
「IPSコンピュータ博物館」のページを見ると1950年代の終わりにはOSが開発されていたことがわかる。科学技術計算用のFORTRANや事務計算用のCOBOLなどのプログラミング言語が考案されたのも1950年代後半のことだ。トランジスタを使って作られた大型コンピュータは会社や大学で普通に使われていた。
著者の大学での専攻は化学なのでコンピュータや計算機とは関係ない。半導体技術にしてもそれは物性物理の範疇だ。だから新卒社員としてビジコン社という計算機メーカーに入社したとき、彼は素人同然だった。
1969年当時はIC電卓からLSI電卓への移行期である。カシオや早川電機(現シャープ)をはじめ大小さまざまなメーカーが開発競争を繰り広げていた。機械式計算機メーカーとして成長してきたビジコン社もそのうちのひとつである。嶋先生は同社の「プリンタ付き電卓」という新製品に組み込むLSIを開発、製造してもらうために当時の社員数500人ほどの半導体メーカー、インテル社に数名の技術者うちのひとりとして派遣されたのだ。入社して2年しかたっていない。そこに数々の困難が待ち受けていることを先生は予想だにしていなかった。
大多数のメーカーが電卓の回路として採用していたのは「ランダム論理」というもので計算手順をすべてAND、OR、NOT、NORなどの論理ゲートの組み合わせで電子部品を配線するものだった。電卓は何かキーが押されるたびに内部の状態が推移していくのだが、その状態推移や計算そのものをすべて電子素子の回路として実現していたわけである。(参考記事:「電卓を作りたいという妄想」)
それに対してビジコン社の電卓はキー操作による状態推移や計算自体をマクロ化した「プログラム論理」を採用していた。つまりコンピュータ化しやすい設計方針だったのである。このことが後にインテル社と組むことでCPU開発の大きなメリットになった。
インテル社に着き、嶋先生が開発依頼の窓口として紹介されたのがホフという31歳の技術者だった。ところがホフをはじめ、インテル社はビジコン社側からのLSI開発依頼にまったく興味を示してくれなかった。
「これはどういうことか?」
嶋先生は焦った。
先生はビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのように社長ではなく中堅会社の平社員に過ぎない。ホフについても同様だ。つまり意思決定するためにその都度上司の判断を仰がなければならないということだ。さらに嶋先生にとっては人生初の海外生活で英会話にも自信がなかったそうだ。渡米直後にいきなり大問題に直面してしまったわけである。
この段階でビジコン社の提案は「LSI電卓」であり、CPUという発想は世界中の誰も思いついていなかった。とにかく電卓の設計方針を詳しく説明して、納得してもらうことから始めなければならない。
その後、嶋先生がどのような奮闘を経て世界初のCPU Intel 4004(1971)や、8080(1974)、ザイログ社のZ80(1976)、Z8000(1979)などのCPUとそれらの周辺LSI(ファミリーLSI)の開発に貢献していったかという話が続く。でもそれはとても長い話になるので、本書やウィキペディアの「嶋正利」の項目をお読みいただきたい。
CPUのアイデア自体はホフによるものだ。しかし依頼者の立場から一転して共同開発者になった嶋先生の協力なしにCPUを完成させることはできなかった。
残念ながら本書は絶版なので中古本をお買い求めになるか図書館を利用していただきたい。(復刊リクエストにご協力いただける方はこちらからお願いします。)
CPUは内部演算回路やデータパスで扱うビット数が増えるに従い、コンピュータの使用用途が拡大する。
- 4ビットCPU (例:Intel 4004):10進数計算用、電卓用、簡単な機器制御用
- 8ビットCPU(例:Intel 8080, Zilog Z80):文字の入出力、簡単な図形表示、OSの実装、BASICや各種の高級プログラミング言語
- 16ビットCPU (例:Zilog Z8000):高品質なグラフィック処理、写真
またCPUに詰め込まれる素子数(総トランジスタ数)もビット数が増加すると次のように増えていく。CPU以外にも周辺LSIもあるから素子数は膨大だ。
- 4ビットCPU (Intel 4004):2,300
- 8ビットCPU(Intel 8080):4,800
- 8ビットCPU(Zilog Z80):8,200
- 16ビットCPU (Intel 8086):20,000 (29,000)
- 16ビットCPU (Zilog Z8000):17,500
中略
- 64ビットCPU (Intel Core i7プロセッサー): 7億3100万個
参考:CPUの素子数の変化(Intel 4004から最新のCore i7まで、画像クリックで拡大)
http://japan.intel.com/contents/museum/processor/index.html
CPUや周辺LSIの開発手順は大まかに次のようになる。
- 仕様決定
- 論理設計
- 回路設計
- 回路のマスクパターンのレイアウトと検査
- シリコン・ウェハーの製造
- シリコン・ウェハー上での検査、動作確認
- 周辺LSIと組み合わせて動作確認、デバッグ
- 量産用試作CPUの製造
- 量産開始
嶋先生やホフのCPU開発は世界で初めてのことである。設計から検査まですべて初めて経験することばかりでそのための機械はなく、自分で作るか目視で検査するしかない。
人間の目や手で設計や検査ができるのは、どんなにがんばっても8ビットCPUまでなのだそうだ。もちろんミスも発生する。本書には「気の狂うような作業」で精魂尽き果てたことも書かれている。
「もし動かなかったらどうしよう。。。」
スケジュールを気にしながら最後の最後までものすごいプレッシャーを受けながら黙々と作業を続けるわけである。
CPUというアイデアだけではどうにもならない。実現するためには並々ならぬご苦労があったのだ。
このように完成できるかできないか最後になるまでわからない創造的な新製品を中堅の企業が業務として仕様を決定し、開発していくプロセスに僕は新鮮な驚きを覚えた。ふつう会社の業務は経営陣の決定してトップダウンの命令によって行われるからだ。(もちろんトップダウンの意思決定はその都度あったと思う。)
当事のインテル社は巨大企業IBMのように多額の投資を研究開発費に投じていた企業ではないし、嶋先生やホフの立場はマイクロソフト社やアップル社の社長にようにみずから自由な意思決定ができたわけではない。売り上げ見込みがどの程度立つかわからない状況で、このようなチャレンジがよく続けられたものだと僕は思った。
実際CPUのビジネスに将来性があることがインテル社の経営陣に理解されたのは、4004の完成からやっと2年後、8080の開発がスタートする頃だったのだ。
嶋先生は今日70歳になられたばかりだが、先生の共同開発者としてCPU開発に貢献された技術者も、すでにご高齢になられている。ウィキペディアの記事によるとその後もご活躍されていること、お二人とも2009年にアメリカ国家技術賞を受賞されていることがわかる。
テッド・ホフ:76歳(ウィキペディアの記事)
フェデリコ・ファジン:72歳(ウィキペディアの記事)
関連ページ:
コンピュータ偉人伝(嶋正利)
http://www.ijinden.com/_c_16/Shima_Masatoshi.html
マイクロコンピュータは誰が創ったの?
http://www.picfun.com/cpu02.html
ところで個人でCPUのチップを製造できるはずがないことは百も承知であるが、ICを組み合わせてなら作ることをご存知だろうか。有名なのは中日電工さんの「MYCPU80組立キット」だが、相当な電子工作の経験が要求される。
もっと簡単に作れないものか。。。僕が気になっているのはこの本だ。アマゾンではレビューも50人以上投稿されていて、すこぶる評判がよい。この本で作るのは4ビットのCPUである。
「CPUの創りかた:渡波郁」
関連記事:
安田寿明先生の「マイ・コンピュータ」3部作(ブルーバックス)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e54e4eb38380ff2ff2f51747ca7b4f75
NEC TK-80やワンボードマイコンのこと
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/36db2417701c58efa1ac81343e70227b
真空管式コンピュータへのノスタルジア(EDSAC)
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/14c9aeedfcda78c9fd9ff4b677435283
ファインマン計算機科学:ファインマン, A.ヘイ, R.アレン
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/4f7f453019fd463ed2bfdeaa7b288d79
量子コンピュータ入門:宮野健次郎、古澤明
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/ef75709187cf4b35a12f2d9fdf73a320
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「マイクロコンピュータの誕生―わが青春の4004:嶋正利」
まえがき
第1章:マイクロコンピュータ誕生の背景
- マイクロコンピュータとは何か
- 電子式卓上計算器の登場と発展
- 半導体論理素子技術の登場と発展
- ビジコン社へ入社
- ハードウェア・アーキテクチャの発展
- LSI電卓発表の衝撃
第2章:電卓用汎用LSIの開発
- ビジコン社とインテル社との開発契約
- プロジェクトチームの結成と渡米
- ホフの登場
- インテル社
- プログラム論理方式の電卓用汎用LSI開発の提案
- 他社の動向とアメリカ生活
- 暗礁に乗り上げる
第3章:マイクロコンピュータのアイデアの出現
- ホフのアイデア
- 「4ビットのCPU」の採用へ
- ホフのアイデアはどこから来たか?
- マイクロコンピュータ・システムの構築
- 一時帰国へ
第4章:世界初のマイクロプロセッサ4004の設計と誕生
- ファジンの登場
- 発注者が設計の助っ人に
- マイクロプロセッサの設計
- ヨーロッパで市場調査をして帰国
- マイコン電卓一発始動
- 4004 CPU開発以後
第5章:8080の開発
- ミニコン技術の習得
- インテル社からの誘い
- 再びインテルへ
- 最大のヒット商品8080の開発へ
- 新型NMOSプロセスの登場
- 8080の目標と設計ゴール
- 8か月で設計完了
- 8080が完成し爆発的に売れた
- 2種類の8080
- 8080の生産移行と周辺LSIの開発
- ファジンとアンガーマンの退社
第6章:Z80の開発
- フロッピー・ディスクとDRAMの大量生産化
- ザイログ社設立に参加
- Z80マイクロプロセッサ開発のゴール
- Z80のハードウェア・アーキテクチャ
- わずか9か月で最初のウェーハが得られた
第7章:Z8000の開発
- 16ビット・マイクロプロセッサの開発競争
- 難しかったZ8000の開発
- Z8000とは何か
- デバッグの方法も変わった
第8章:これからのマイクロプロセッサ
- 開発からの引退と帰国
- これからのLSI開発
- 失敗しないための方法論
あとがき
- 新世代マイクロプロセッサ開発と現役復帰
参考文献
人名索引