「ゴドーを待ちながら:サミュエル ベケット」
内容紹介:
田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている──。不条理演劇の代名詞にして最高傑作、待望のペーパーバック化!
『ゴドー』に接して、人はむしょうにおしゃべりになりたがっている自分を見出す。無数の解釈が生まれ、すれちがい、ゆらめき、消尽されてゆく、その過程がまさにこの作品を観たり読んだりする経験の実体にちがいないのだ。「ゴドーを待つ」という、あるようなないような枠組(大いなる物語)は、過去と未来のあいだに宙吊りにされたこの現在あるいは現代の瞬間を生き生きとさせるための仕掛けにすぎないのかもしれない。
著者と訳者について:
サミュエル・ベケット Samuel Beckett 1906-89
アイルランド出身の劇作家・小説家。1927年、ダブリンのトリニティ・カレッジを主席で卒業。28年にパリ高等師範学校に英語講師として赴任し、ジェイムズ・ジョイスと知り合う。うつ病治療のためロンドンの精神病院に通うが、37年の終わりにパリに移住し、マルセル・デュシャンと出会う。ナチス占領下には、英国特殊作戦執行部の一員としてレジスタンス運動に参加。『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の小説三部作を手がけるかたわら、52年には『ゴドーを待ちながら』を刊行(53年に初演)。ヌーヴォー・ロマンの先駆者、アンチ・テアトルの旗手として活躍し、69年にノーベル文学賞を受賞。ポストモダンな孤独とブラックユーモアを追究しつづけ、70年代にはポール・オースターとも交流。晩年まで、ミニマル・ミュージックさながらの書法で、ラジオ・テレビドラマなど数多く執筆している。
訳者:安堂 信也(あんどう しんや 1927-2000)
1951年早稲田大学仏文科卒。早稲田大学名誉教授。
訳者:高橋 康也(たかはし やすなり 1932-2002)
1953年東京大学英文科卒。東京大学名誉教授。
この2年ほどの間に演劇をしている何人かの若者と知り合いになり、年に2~3度劇場に足を運んでいる。大学生の頃はときどき友達から誘われて観に行っていたので、演劇はなんとなくノスタルジーだ。僕にとって演劇らしい演劇というのは特に不条理劇。代表的なのはイヨネスコの「授業(La Leçon)」とベケットの「ゴドーを待ちながら(En Attendant Godot)」である。どちらも昔から有名な劇団、俳優が演じ続けている。ツイッターで検索してみると、今でも根強い人気があることがおわかりになるだろう。
今回久しぶりに読んだこの本を初めて読んだのは大学生のときだ。脚本がそのまま本になっている。出演者は5人いるが、エストラゴンとヴラジーミルという2人組のホームレスがゴドーという「救済者」を待ちながらひまつぶしに興じているだけ、というわけのわからない劇なのだが、僕にとっては本のほうもノスタルジー。1990年に出版された本は絶版になり、しばらく中古でしか買えない状態が続いていた。2013年に上品な褐色の表紙でようやく復刊した。
あらゆる解釈を拒絶し、あらゆる解釈を受け入れてしまう脚本だと僕は思う。本の帯には「不条理演劇の最高傑作」とある。
「ゴドーを待ちながら:サミュエル ベケット」
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下北沢では昨年8月に俳優の柄本佑さん&時生さんがこの劇を演じたようだ。とても観たいと思ったが、知ったのが秋も深まってのことだったので時すでに遅し。
劇団東京乾電池 ETx2 第4回公演: ゴドーを待ちながら
http://www.tokyo-kandenchi.com/kako/kouen/kako_2014godot.html
この演劇の原作はフランス語と英語の二ヶ国語で書かれた。パリで初演されたのは1953年1月5日である。当時の批評家は9割の無視ないし敵視をし、残りの1割は熱狂的な賞賛をしたという。パリでは100回を越える公演を記録した。
それにひきかえ、アメリカでの初演はさんざんだったという。よりによって観光地マイアミで「パリ輸入の爆笑コメディ」というふれこみで初日を迎えた。幕間のあとまで残っていた客はテネシー・ウィリアムズとウィリアム・サローヤンのほか、出演俳優の家族数人だっという。早々にして公演中止となったのは言うまでもない。
このように観る人を選ぶ演劇は、どの程度まで観客を突き放すかの一点において、演出の具合をみるのが愉しみでもあり、見られる方は怖さがあると思う。観客を引き離しつつ、どのようにして観客を2時間引き止めるかが難しい。観るほうにも、観られるほうにも緊張感が走る。
関連ブログ記事:
ゴドーを待ちながら(松岡正剛の千夜千冊)
http://1000ya.isis.ne.jp/1067.html
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)
http://ameblo.jp/classical-literature/entry-11541640031.html
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)
http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/51402640.html
「ゴドーを待ちながら」はYouTubeにフランス語版と英語版の動画がアップされている。脚本のテキストも両言語ともにネット上に見つけたの紹介しておこう。演劇人の方は演技の参考に、語学人の方は語学教材として活用してほしい。
フランス語版:第1幕: テキスト
フランス語版:第2幕: テキスト
英語版:第1幕、第2幕連続再生: 第1幕テキスト、第2幕テキスト
スマートホンの方はこちらから再生: https://www.youtube.com/watch?list=PL4C04714C4474A987&v=X7_g52JrshE
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内容紹介:
田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている──。不条理演劇の代名詞にして最高傑作、待望のペーパーバック化!
『ゴドー』に接して、人はむしょうにおしゃべりになりたがっている自分を見出す。無数の解釈が生まれ、すれちがい、ゆらめき、消尽されてゆく、その過程がまさにこの作品を観たり読んだりする経験の実体にちがいないのだ。「ゴドーを待つ」という、あるようなないような枠組(大いなる物語)は、過去と未来のあいだに宙吊りにされたこの現在あるいは現代の瞬間を生き生きとさせるための仕掛けにすぎないのかもしれない。
著者と訳者について:
サミュエル・ベケット Samuel Beckett 1906-89
アイルランド出身の劇作家・小説家。1927年、ダブリンのトリニティ・カレッジを主席で卒業。28年にパリ高等師範学校に英語講師として赴任し、ジェイムズ・ジョイスと知り合う。うつ病治療のためロンドンの精神病院に通うが、37年の終わりにパリに移住し、マルセル・デュシャンと出会う。ナチス占領下には、英国特殊作戦執行部の一員としてレジスタンス運動に参加。『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の小説三部作を手がけるかたわら、52年には『ゴドーを待ちながら』を刊行(53年に初演)。ヌーヴォー・ロマンの先駆者、アンチ・テアトルの旗手として活躍し、69年にノーベル文学賞を受賞。ポストモダンな孤独とブラックユーモアを追究しつづけ、70年代にはポール・オースターとも交流。晩年まで、ミニマル・ミュージックさながらの書法で、ラジオ・テレビドラマなど数多く執筆している。
訳者:安堂 信也(あんどう しんや 1927-2000)
1951年早稲田大学仏文科卒。早稲田大学名誉教授。
訳者:高橋 康也(たかはし やすなり 1932-2002)
1953年東京大学英文科卒。東京大学名誉教授。
この2年ほどの間に演劇をしている何人かの若者と知り合いになり、年に2~3度劇場に足を運んでいる。大学生の頃はときどき友達から誘われて観に行っていたので、演劇はなんとなくノスタルジーだ。僕にとって演劇らしい演劇というのは特に不条理劇。代表的なのはイヨネスコの「授業(La Leçon)」とベケットの「ゴドーを待ちながら(En Attendant Godot)」である。どちらも昔から有名な劇団、俳優が演じ続けている。ツイッターで検索してみると、今でも根強い人気があることがおわかりになるだろう。
今回久しぶりに読んだこの本を初めて読んだのは大学生のときだ。脚本がそのまま本になっている。出演者は5人いるが、エストラゴンとヴラジーミルという2人組のホームレスがゴドーという「救済者」を待ちながらひまつぶしに興じているだけ、というわけのわからない劇なのだが、僕にとっては本のほうもノスタルジー。1990年に出版された本は絶版になり、しばらく中古でしか買えない状態が続いていた。2013年に上品な褐色の表紙でようやく復刊した。
あらゆる解釈を拒絶し、あらゆる解釈を受け入れてしまう脚本だと僕は思う。本の帯には「不条理演劇の最高傑作」とある。
「ゴドーを待ちながら:サミュエル ベケット」

下北沢では昨年8月に俳優の柄本佑さん&時生さんがこの劇を演じたようだ。とても観たいと思ったが、知ったのが秋も深まってのことだったので時すでに遅し。
劇団東京乾電池 ETx2 第4回公演: ゴドーを待ちながら
http://www.tokyo-kandenchi.com/kako/kouen/kako_2014godot.html
この演劇の原作はフランス語と英語の二ヶ国語で書かれた。パリで初演されたのは1953年1月5日である。当時の批評家は9割の無視ないし敵視をし、残りの1割は熱狂的な賞賛をしたという。パリでは100回を越える公演を記録した。
それにひきかえ、アメリカでの初演はさんざんだったという。よりによって観光地マイアミで「パリ輸入の爆笑コメディ」というふれこみで初日を迎えた。幕間のあとまで残っていた客はテネシー・ウィリアムズとウィリアム・サローヤンのほか、出演俳優の家族数人だっという。早々にして公演中止となったのは言うまでもない。
このように観る人を選ぶ演劇は、どの程度まで観客を突き放すかの一点において、演出の具合をみるのが愉しみでもあり、見られる方は怖さがあると思う。観客を引き離しつつ、どのようにして観客を2時間引き止めるかが難しい。観るほうにも、観られるほうにも緊張感が走る。
関連ブログ記事:
ゴドーを待ちながら(松岡正剛の千夜千冊)
http://1000ya.isis.ne.jp/1067.html
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)
http://ameblo.jp/classical-literature/entry-11541640031.html
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)
http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/51402640.html
「ゴドーを待ちながら」はYouTubeにフランス語版と英語版の動画がアップされている。脚本のテキストも両言語ともにネット上に見つけたの紹介しておこう。演劇人の方は演技の参考に、語学人の方は語学教材として活用してほしい。
フランス語版:第1幕: テキスト
フランス語版:第2幕: テキスト
英語版:第1幕、第2幕連続再生: 第1幕テキスト、第2幕テキスト
スマートホンの方はこちらから再生: https://www.youtube.com/watch?list=PL4C04714C4474A987&v=X7_g52JrshE
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