「見えざる宇宙のかたち―ひも理論に秘められた次元の幾何学:シン=トゥン・ヤウ、スティーヴ・ネイディス」
内容紹介:
家禽業者になりかけた中国の少年ヤウは、一か八かで数学に賭けた。強くひかれた幾何学への道は、“宇宙の形”へとつながっていた…。いまや宇宙論には欠かせない「カラビ=ヤウ多様体」の生みの親であるフィールズ賞受賞者シン=トゥン・ヤウが、自らの数奇な半生と「見えざる」次元の幾何学への熱い想いを、多数の図版と平易な解説とともに語り尽くす。2012年刊行、412ページ。
著者について:
シン=トゥン・ヤウ: ウィキペディアの記事
1987年よりハーヴァード大学教授の数学者。現在は学科長。フィールズ賞、アメリカ国家科学賞、クラフォード賞、ヴェブレン賞、ウルフ賞を受賞。アメリカ科学アカデミー会員
スティーヴ・ネイディス: ハーバード大学のHPの中の本書紹介ページ
サイエンスライター。雑誌『アストロノミー』寄稿編集者。ハンプシャー・カレッジ卒。20冊以上の本を執筆および寄稿。マサチューセッツ工科大学客員研究員、憂慮する科学者同盟研究員、世界資源研究所顧問、ウッズ・ホール海洋研究所顧問、公共教育放送WGBH/NOVA顧問
翻訳者について:
水谷淳
翻訳家。科学教養書を数多く翻訳されている。Amazonで水谷淳さん翻訳の本を検索
理数系書籍のレビュー記事は本書で266冊目。
またまた良い本とめぐり合った。最先端の科学、特に数学は教科書で学ばないかぎり理解できないものだと思っていたから、本書と出会えてとてもうれしい。本書を紹介してくださったガロアさんには感謝、感謝である。
本書は数式無しの科学教養書とはいえ「中級者向け」である。「大栗先生の超弦理論入門:大栗博司」や「エレガントな宇宙:ブライアン・グリーン」をお読みになった後で本書をお読みになるとよい。アマゾンにもまだレビューが投稿されていないので、紹介しておく価値はじゅうぶんある。
本書の原題は「The Shape of Inner Space: String Theory and the Geometry of the Universe's Hidden Dimensions」で原義どおりの意味だと「内部空間の形:ひも理論に秘められた次元の幾何学」になる。この内部空間こそが6次元の余剰空間として時空の各点に巻き上げられて隠れている「カラビ=ヤウ空間」であり、数学から見るとそれは複素3次元の「カラビ=ヤウ多様体」なのである。(複素1次元は実数2次元に対応するので物理的空間としての次元数は2倍の6次元になる。)
カラビ=ヤウ空間(巻き上げられた6次元空間を2次元に投影してあらわしたもの)
超弦理論の基礎となる弦はこのカラビ=ヤウ空間に存在し、その振動パターンによって4次元(空間3次元+時間1次元)の世界の私たちには標準理論で説明されている素粒子や4つの力として観測されるのだ。カラビ=ヤウ空間が超弦理論で主要な役割を果たすことがわかったのは1984年の第1次超弦理論革命のときである。カラビ=ヤウ多様体の持つ数学的性質は一般相対性理論(アインシュタインの重力場の方程式)と素粒子の標準理論(ゲージ理論の方程式)を満たしていることが確認され、超弦理論が脚光を浴びることにつながった。超弦理論やカラビ=ヤウ多様体による理論は標準理論の先に予測されている「超対称性理論」も含んでいる。
大栗博司先生は「超弦理論」という呼び方を推奨されているが本書では「ひも理論」という呼び方をしている。以下、今回のブログ記事では本書の訳語に従って「ひも理論」という言葉で進めさせていただく。
一昨年NHKで放送された「神の数式 完全版」では第4回の放送でカラビ=ヤウ空間が紹介された。けれどもその数学的な構造はとてもこの手の番組では手に負えるものではないので、詳しいことは視聴者にはわからない。ひも理論でいちばん重要な部分なのに肝心なところがすっぽり抜けた感じがしていた方も多いことだろう。この数学的な内容は大栗先生やブライアン・グリーン先生の著書でも少ししか書かれていない。本書は欠落している数学的な部分を埋めることで読者の好奇心を満たしてくれるのだ。
多様体の理論とは微分幾何学やトポロジー(位相幾何学)などの現代幾何学を含んだもので、大ざっぱに言えば1次元から多次元までの滑らかな形と(距離や曲率、角度、トポロジー的な性質を測るための各種の標数、穴の数など)数学的な量を研究する分野だ。その形はもちろん円や球のように単純なものからドーナツ(数学用語ではトーラス)のように曲がったもの、一般に複数個穴のあいたものも含まれる。また次元も実数次元のものと複素数次元を持つものがある。多次元に存在するそれらの形はそれぞれの次元特有で摩訶不思議な個性を持つため、解き方も数学のさまざまな分野の定理を駆使する必要がある。
複素次元をもつ多様体のうち、平行移動操作のもとで多様体の複素構造を変えない特別な種類のホロノミー(曲面上のループに沿って接ベクトルを動かしたときに、その接ベクトルがどの程度変化するかを測る尺度)をもつものを「ケーラー多様体」と呼び、そのうちリッチ曲率がゼロ、すなわち「平坦」なのものを「カラビ=ヤウ多様体」と呼ぶ。この多様体の形は無数にあるので、ひも理論で予言されている宇宙の可能性が無数である(多宇宙の仮説)とされるのもその数が根拠となっている。(参考:「隠れていた宇宙(上):ブライアン・グリーン」の中の「ランドスケープ多宇宙」を参照。)
ヤウ博士はもともと物理学とは関係なく純粋に数学として「カラビ予想」の証明やカラビ=ヤウ多様体の研究を続けていらっしゃり、その功績によってフィールズ賞を受賞されたのが1982年のこと、つまりひも理論との結びつきが確認される2年前のことなのだ。
このような意味では本書を読むために多様体について知っておく必要があるし、アマゾンの「現代数学への招待:多様体とは何か:志賀浩二」という本のレビュー記事にもそのように書いてあったので、先日この本を紹介したばかりだ。実際のところ僕の意見としては「志賀先生の本や読んでおいたほうが本書の説明が理解しやすくなるのは事実だが、必ずしも必要はない。」というところ。多様体の「接ベクトル」、「接空間」、「接束(接バンドル)」、「計量」などの概念を知っておけば理解がより深まるという程度だと思う。トポロジーの部分は本書でわかりやすく説明してあるので大丈夫。読者の前提知識が増すにつれて、本書の解説はより深く読み取れるように書かれている。つまり逆説的な言い方になるが、知識が無くて途方にくれるということはない。
全体のページ数は412ページだが、本文に割り当てられているのは355ページだ。そして巻末には18ページに渡る用語解説が含められている。この用語解説はとてもわかりやすいので、本文を読む前に目を通しておくとよいだろう。
以下、本書で印象に残ったこと、良いと思ったことを箇条書きで紹介しておく。
- 多次元の多様体の世界は視覚的に想像できない世界だ。そのように行ったことのない場所を言葉で説明しても、通常はイメージするのがなかなか大変なもの。本書では次元を減らして図示することによって、とてもわかりやすい説明がされている。
- 物理学者からの視点、数学者からの視点の両方から同じ問題をとらえるときの違いがとても興味深い。数学が物理学に先行した例、物理学が数学に先行した例を紹介し、相互に影響しながらひも理論が進歩してきた様子がよくわかる。ひも理論や素粒子物理学のさまざまな概念が数学のどの概念と対応しているのかがはっきり示されている。(例:物理のゲージ理論は多様体のバンドル理論に対応している。)
- Dブレーンとカラビ-ヤウ空間の関係が理解できた。「神の数式 完全版」ではDブレーンを使った計算によって「ブラックホールのエントロピー(熱)の問題」が解決したことがこの図で紹介されていた。Dブレーンは折りたたまれてカラビ-ヤウ空間の中を蛇のように動き回り、熱が発生するのだという。
しかしDブレーンは多次元の物体である。6次元のカラビ=ヤウ空間の中でこのようなDブレーンの配置はどのように実現されるのかよくわからなかった。この問題は「初級講座弦理論 発展編:B.ツヴィーバッハ」の第22章でも計算方法が紹介されていたが視覚的なイメージと結びつけて理解できていなかった。本書の説明でそのあたりのことやブラックホールの情報量はその表面積に比例するということも幾何学的に理解できた。
- 他の科学教養書との重複がないこと。一般向けの科学教養書には本論にたどりつく前に相対性理論や量子力学などの説明が長々と続くものが多い。すでに他の本でその内容を知っている読者にとっては無駄な記述である。本書にはそのような箇所がほとんどないのでほとんどのページが本来説明したいカラビ-ヤウ空間とひも理論にあてられている。
- 大栗先生のお考えが紹介されているのがよかった。本書200ページ目あたりから数ページに渡ってヤウ博士が大栗先生から聞いた話が紹介されている。大栗先生の著書をお読みになった方にはうれしい箇所だ。また大栗先生は本書の訳語について訳者の水谷さんにアドバイスをされている。
- 読者が疲れないように章立てに工夫がされている。これだけ分厚く、細かい文字が2段組のレイアウトで印刷されている本なので、抽象的なトポロジーの話や多次元空間の話が続くと慣れていない読者はとても疲れてしまう。現実世界にはやく戻って安心したいと思うものだ。本書では「現実世界=4次元の私たちの世界=素粒子物理学の世界」とみなし、抽象と現実の世界をいったり来たりすることで、ひも理論やカラビ=ヤウ空間の世界と素粒子の世界とのつながりが効率的に説明されている。
- ひも理論やカラビ=ヤウ多様体の問題を物理学者や数学者がどのような方法で解いていったかが具体的に解説されている。代数的な解法だけでなく、非線形偏微分方程式のような解析的なものもあれば、トポロジーの定理を使う解法、ニュートン法のような近似解法、コンピュータを使う方法など数学のあらゆる分野のテクニックが使われていることを知ることができる。
- ひも理論は私たちの宇宙のほかに10の500乗種類の別の宇宙が存在すると予言している。これを「ランドスケープ多宇宙」と呼ぶ。本書では「10の500乗種類」の計算の根拠が示されていた。
- ひも理論の双対性、カラビ-ヤウ空間の双対性について詳しい解説がされている。どちらも双対性があるおかげで方程式の解を求める作業を大幅に減らすことができる。物理学にとっても数学にとっても双対性は重要な性質であることが、多くの例を使って紹介されていた。
- カラビ-ヤウ空間はコニフォールド転移という方法で変形することで、ひも理論にある問題を解く必要がでてくる。コニフォールドというのは円錐形の尖った突起である。多様体ではこのようにおかしな物体を貼り付けたり、取ったりして研究を進めるそうだ。「初級講座弦理論 基礎編:B.ツヴィーバッハ」でもオービフォールドと呼ばれる円錐形の空間での計算が紹介されていて、僕は「なぜ、こんな不自然な空間を持ち出さなければならないのだろう?計算練習のためだろうか?」と不思議に思っていたのだが、その理由が本書を読んで理解できた。
- ひも理論は物理学を統一する理論であるが、カラビ-ヤウ多様体はひも理論に恩恵を与えただけでなく、相異なる数学のそれぞれの分野を統一するという役割を果たしたそうだ。仮に将来ひも理論が正しくないことが証明されてしまったとしても、カラビ-ヤウ多様体の存在意義はじゅうぶん過ぎるほど残るのだ。数学の理論は一度証明されれば永遠に否定されることのない「真理」であることがよく理解できた。
- ハイゼンベルクの不確定性原理により10のマイナス30乗cm程度のプランクスケールの世界では、時空は「泡だってしまい」、幾何学が成り立たなくなると予想されている。これは幾何学の終焉を意味するのだろうか?その後の幾何学は「量子幾何学」になるのかもしれないと予想されているが、それがどのようなものかは全くわかっていない。このあたりについての物理学者やヤウ博士のお考えはとても興味深かった。
- 本書の記述が公平であること。ひも理論に対して否定的な立場をとる物理学者や元物理学者も数多くいる。ひも理論やカラビ-ヤウ多様体はまだまだ解明されていなことばかりだ。著者はポジティブなことだけでなく、ネガティブなこと、今後解決が予想されていることなど、お感じになっていることを誠実に語り、ひも理論と現代幾何学の現在の状況を正確に読者に伝える努力を払っている。
数式が苦手な方も、そして専門的に複素多様体、複素幾何学を学ぼうとしている学生にとっても刺激の多い本、ためになる本である。ぜひ読んでいただきたい。
翻訳の元になった英語版は2010年に刊行されたこの本だ。Kindle版は1200円ほどで買えるのでお勧めだ。英語版には本書に登場する物理学者や数学者の写真が掲載されている。これらの写真は日本語版には掲載されていない。
「The Shape of Inner Space: String Theory and the Geometry of the Universe's Hidden Dimensions: Shing-Tung Yau, Steve Nadis」(Kindle版)
最後に本書を翻訳した水谷淳さんによる本書の紹介を書いておこう(「訳者あとがき」)
本書は、カラビ=ヤウ多様体という、ひも理論において中心的な役割を果たしている数学的概念を、その生みの親であり、その呼び名にも自らの名が冠されている大物数学者本人が解説した本である。とくに、数学と物理学という本来別々の分野が、カラビ=ヤウ多様体をめぐってどのような影響を及ぼしあいながら進歩しているかが、事細かに述べられている。執筆においては、何冊もの本を書いている気鋭のサイエンスライターが共著者として手助けしており、難解な諸概念をできるだけ平易に説明している。登場する数学的概念の多くは多次元に関係しており、また完全に理解するには高度な数学や抽象的思考に頼らなければならないが、本書は、低次元における身近な例や比喩などを用い、できる限り具体的なイメージを伝えようとしている。専門的に勉強したいのではなく、あくまでもこの分野の全体像を直感的に知りたいという読者には、十分だろう。そして何よりも、主著者がどのような半生を贈り、何を考えながら研究を進めてきたかが詳しく語られており、とても興味深い。
重力の理論である一般相対論と、原子や素粒子の世界を記述する量子力学はいずれも、本来ニュートン力学では用いられない、より高度な数学によって記述されている。それらの数学はそもそも、物理学とは関係なしに純粋数学として考え出されたが、のちに物理学者が、自然現象を記述する上できわめて有用であることに気づき、物理学に応用するようになった。
それと同じことが再び起ころうとしている。現在、一般相対論と量子力学を統一してさらに広範囲な現象を説明できる万物理論の候補として、ひも理論の研究が盛んにおこなわれているが、そこでは相対論や量子力学に用いられているものよりさらに高度な数学が必要である。その一つが、カラビ=ヤウ多様体を含む、微分幾何学や多様体の理論といった高等な幾何学だ。
一方で、ひも理論研究者が独自に考え出した概念が、逆に数学にとって重要な役割を果たし、数学の研究を前進させている。数学者である主著者も、もともと物理学とは無関係に研究をおこなっていたが、ひも理論の進展に促されながらさらなる研究を進めている。
最終的にひも理論が究極の万物理論として正しいかどうかは、現段階ではわからない。しかし、ひも理論の研究を進めていくことで、自然現象の理解が進むとともに、数学もまた新たな発展を見せるだろう。最先端の数学はわたしたち一般人の直感が遠く及ばないところへ進んでいくかもしれないが、本書のように専門家がときにかみ砕いて解説してくれれば、これからも何とか置き去りにされずについていけるだろう。
主著者のシン=トゥン・ヤウは1945年に中国広東省で生まれ、現在はハーヴァード大学数学科教授を務めている。本文で詳しく語られているとおり、かなりの苦労人で努力家だ。香港中文大学を卒業したのちに、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得し、その後はアメリカで研究を進めている。数々の賞を受賞しており、中でも1982年には、数学界のノーベル賞とも呼ばれるフィールズメダルを受賞した。
共著者のスティーヴ・ネイディスは、フリーのサイエンスライター。天文雑誌『アストロノミー・マガジン』の寄稿編集員を務めている。執筆活動は天文学に限らず科学技術全般にわたっており、科学雑誌『ネイチャー』、『サイエンス』、『サイエンティフィック・アメリカン』などでも記事を書いている。一般向けの科学本も多数執筆している。
最後になったが、一部訳語についてアドバイスをいただいたカリフォルニア工科大学の大栗博司教授と、編集作業を丁寧に進めてくださった岩波書店の辻村希望氏に深く感謝申し上げる。(とね註:辻村氏の「辻」のしんにょうの点は1つ)
2012年2月
訳者
関連記事:
カラビ-ヤウ空間を見てみよう!
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b3ab2b9875e9a2b81b055153c078439b
大栗先生の超弦理論入門:大栗博司
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/75dfba6307d01a5d522d174ea3e13863
エレガントな宇宙:ブライアン・グリーン
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/404c24b68f57609900bc3d7a030333d5
現代数学への招待:多様体とは何か:志賀浩二
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/7aade4e043ef0b93de491bf674c734f3
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「見えざる宇宙のかたち―ひも理論に秘められた次元の幾何学:シン=トゥン・ヤウ、スティーヴ・ネイディス」
"空間/時間"(詩)
はしがき
序:来たるべきものの形
1:余白の中の宇宙
2:自然の秩序には幾何が潜んでいる
3:新たなる"金槌"
4:真であるには、できすぎている
5:カラビ予想の証明
6:ひも理論のDNA
7:鏡を通してみれば
8:時空のよじれ
9:現実世界に立ち戻る
10:カラビ=ヤウを超えて
11:ほころびる宇宙
12:余剰次元を探す
13:真理、美、そして数学
14:幾何学の終焉?
エピローグ:新しい日、新しいドーナツ
あとがき:神聖なる場所へ
"長い夜の一瞬のきらめき"(詩)
訳者あとがき
注
用語解説
索引
内容紹介:
家禽業者になりかけた中国の少年ヤウは、一か八かで数学に賭けた。強くひかれた幾何学への道は、“宇宙の形”へとつながっていた…。いまや宇宙論には欠かせない「カラビ=ヤウ多様体」の生みの親であるフィールズ賞受賞者シン=トゥン・ヤウが、自らの数奇な半生と「見えざる」次元の幾何学への熱い想いを、多数の図版と平易な解説とともに語り尽くす。2012年刊行、412ページ。
著者について:
シン=トゥン・ヤウ: ウィキペディアの記事
1987年よりハーヴァード大学教授の数学者。現在は学科長。フィールズ賞、アメリカ国家科学賞、クラフォード賞、ヴェブレン賞、ウルフ賞を受賞。アメリカ科学アカデミー会員
スティーヴ・ネイディス: ハーバード大学のHPの中の本書紹介ページ
サイエンスライター。雑誌『アストロノミー』寄稿編集者。ハンプシャー・カレッジ卒。20冊以上の本を執筆および寄稿。マサチューセッツ工科大学客員研究員、憂慮する科学者同盟研究員、世界資源研究所顧問、ウッズ・ホール海洋研究所顧問、公共教育放送WGBH/NOVA顧問
翻訳者について:
水谷淳
翻訳家。科学教養書を数多く翻訳されている。Amazonで水谷淳さん翻訳の本を検索
理数系書籍のレビュー記事は本書で266冊目。
またまた良い本とめぐり合った。最先端の科学、特に数学は教科書で学ばないかぎり理解できないものだと思っていたから、本書と出会えてとてもうれしい。本書を紹介してくださったガロアさんには感謝、感謝である。
本書は数式無しの科学教養書とはいえ「中級者向け」である。「大栗先生の超弦理論入門:大栗博司」や「エレガントな宇宙:ブライアン・グリーン」をお読みになった後で本書をお読みになるとよい。アマゾンにもまだレビューが投稿されていないので、紹介しておく価値はじゅうぶんある。
本書の原題は「The Shape of Inner Space: String Theory and the Geometry of the Universe's Hidden Dimensions」で原義どおりの意味だと「内部空間の形:ひも理論に秘められた次元の幾何学」になる。この内部空間こそが6次元の余剰空間として時空の各点に巻き上げられて隠れている「カラビ=ヤウ空間」であり、数学から見るとそれは複素3次元の「カラビ=ヤウ多様体」なのである。(複素1次元は実数2次元に対応するので物理的空間としての次元数は2倍の6次元になる。)
カラビ=ヤウ空間(巻き上げられた6次元空間を2次元に投影してあらわしたもの)
超弦理論の基礎となる弦はこのカラビ=ヤウ空間に存在し、その振動パターンによって4次元(空間3次元+時間1次元)の世界の私たちには標準理論で説明されている素粒子や4つの力として観測されるのだ。カラビ=ヤウ空間が超弦理論で主要な役割を果たすことがわかったのは1984年の第1次超弦理論革命のときである。カラビ=ヤウ多様体の持つ数学的性質は一般相対性理論(アインシュタインの重力場の方程式)と素粒子の標準理論(ゲージ理論の方程式)を満たしていることが確認され、超弦理論が脚光を浴びることにつながった。超弦理論やカラビ=ヤウ多様体による理論は標準理論の先に予測されている「超対称性理論」も含んでいる。
大栗博司先生は「超弦理論」という呼び方を推奨されているが本書では「ひも理論」という呼び方をしている。以下、今回のブログ記事では本書の訳語に従って「ひも理論」という言葉で進めさせていただく。
一昨年NHKで放送された「神の数式 完全版」では第4回の放送でカラビ=ヤウ空間が紹介された。けれどもその数学的な構造はとてもこの手の番組では手に負えるものではないので、詳しいことは視聴者にはわからない。ひも理論でいちばん重要な部分なのに肝心なところがすっぽり抜けた感じがしていた方も多いことだろう。この数学的な内容は大栗先生やブライアン・グリーン先生の著書でも少ししか書かれていない。本書は欠落している数学的な部分を埋めることで読者の好奇心を満たしてくれるのだ。
多様体の理論とは微分幾何学やトポロジー(位相幾何学)などの現代幾何学を含んだもので、大ざっぱに言えば1次元から多次元までの滑らかな形と(距離や曲率、角度、トポロジー的な性質を測るための各種の標数、穴の数など)数学的な量を研究する分野だ。その形はもちろん円や球のように単純なものからドーナツ(数学用語ではトーラス)のように曲がったもの、一般に複数個穴のあいたものも含まれる。また次元も実数次元のものと複素数次元を持つものがある。多次元に存在するそれらの形はそれぞれの次元特有で摩訶不思議な個性を持つため、解き方も数学のさまざまな分野の定理を駆使する必要がある。
複素次元をもつ多様体のうち、平行移動操作のもとで多様体の複素構造を変えない特別な種類のホロノミー(曲面上のループに沿って接ベクトルを動かしたときに、その接ベクトルがどの程度変化するかを測る尺度)をもつものを「ケーラー多様体」と呼び、そのうちリッチ曲率がゼロ、すなわち「平坦」なのものを「カラビ=ヤウ多様体」と呼ぶ。この多様体の形は無数にあるので、ひも理論で予言されている宇宙の可能性が無数である(多宇宙の仮説)とされるのもその数が根拠となっている。(参考:「隠れていた宇宙(上):ブライアン・グリーン」の中の「ランドスケープ多宇宙」を参照。)
ヤウ博士はもともと物理学とは関係なく純粋に数学として「カラビ予想」の証明やカラビ=ヤウ多様体の研究を続けていらっしゃり、その功績によってフィールズ賞を受賞されたのが1982年のこと、つまりひも理論との結びつきが確認される2年前のことなのだ。
このような意味では本書を読むために多様体について知っておく必要があるし、アマゾンの「現代数学への招待:多様体とは何か:志賀浩二」という本のレビュー記事にもそのように書いてあったので、先日この本を紹介したばかりだ。実際のところ僕の意見としては「志賀先生の本や読んでおいたほうが本書の説明が理解しやすくなるのは事実だが、必ずしも必要はない。」というところ。多様体の「接ベクトル」、「接空間」、「接束(接バンドル)」、「計量」などの概念を知っておけば理解がより深まるという程度だと思う。トポロジーの部分は本書でわかりやすく説明してあるので大丈夫。読者の前提知識が増すにつれて、本書の解説はより深く読み取れるように書かれている。つまり逆説的な言い方になるが、知識が無くて途方にくれるということはない。
全体のページ数は412ページだが、本文に割り当てられているのは355ページだ。そして巻末には18ページに渡る用語解説が含められている。この用語解説はとてもわかりやすいので、本文を読む前に目を通しておくとよいだろう。
以下、本書で印象に残ったこと、良いと思ったことを箇条書きで紹介しておく。
- 多次元の多様体の世界は視覚的に想像できない世界だ。そのように行ったことのない場所を言葉で説明しても、通常はイメージするのがなかなか大変なもの。本書では次元を減らして図示することによって、とてもわかりやすい説明がされている。
- 物理学者からの視点、数学者からの視点の両方から同じ問題をとらえるときの違いがとても興味深い。数学が物理学に先行した例、物理学が数学に先行した例を紹介し、相互に影響しながらひも理論が進歩してきた様子がよくわかる。ひも理論や素粒子物理学のさまざまな概念が数学のどの概念と対応しているのかがはっきり示されている。(例:物理のゲージ理論は多様体のバンドル理論に対応している。)
- Dブレーンとカラビ-ヤウ空間の関係が理解できた。「神の数式 完全版」ではDブレーンを使った計算によって「ブラックホールのエントロピー(熱)の問題」が解決したことがこの図で紹介されていた。Dブレーンは折りたたまれてカラビ-ヤウ空間の中を蛇のように動き回り、熱が発生するのだという。
しかしDブレーンは多次元の物体である。6次元のカラビ=ヤウ空間の中でこのようなDブレーンの配置はどのように実現されるのかよくわからなかった。この問題は「初級講座弦理論 発展編:B.ツヴィーバッハ」の第22章でも計算方法が紹介されていたが視覚的なイメージと結びつけて理解できていなかった。本書の説明でそのあたりのことやブラックホールの情報量はその表面積に比例するということも幾何学的に理解できた。
- 他の科学教養書との重複がないこと。一般向けの科学教養書には本論にたどりつく前に相対性理論や量子力学などの説明が長々と続くものが多い。すでに他の本でその内容を知っている読者にとっては無駄な記述である。本書にはそのような箇所がほとんどないのでほとんどのページが本来説明したいカラビ-ヤウ空間とひも理論にあてられている。
- 大栗先生のお考えが紹介されているのがよかった。本書200ページ目あたりから数ページに渡ってヤウ博士が大栗先生から聞いた話が紹介されている。大栗先生の著書をお読みになった方にはうれしい箇所だ。また大栗先生は本書の訳語について訳者の水谷さんにアドバイスをされている。
- 読者が疲れないように章立てに工夫がされている。これだけ分厚く、細かい文字が2段組のレイアウトで印刷されている本なので、抽象的なトポロジーの話や多次元空間の話が続くと慣れていない読者はとても疲れてしまう。現実世界にはやく戻って安心したいと思うものだ。本書では「現実世界=4次元の私たちの世界=素粒子物理学の世界」とみなし、抽象と現実の世界をいったり来たりすることで、ひも理論やカラビ=ヤウ空間の世界と素粒子の世界とのつながりが効率的に説明されている。
- ひも理論やカラビ=ヤウ多様体の問題を物理学者や数学者がどのような方法で解いていったかが具体的に解説されている。代数的な解法だけでなく、非線形偏微分方程式のような解析的なものもあれば、トポロジーの定理を使う解法、ニュートン法のような近似解法、コンピュータを使う方法など数学のあらゆる分野のテクニックが使われていることを知ることができる。
- ひも理論は私たちの宇宙のほかに10の500乗種類の別の宇宙が存在すると予言している。これを「ランドスケープ多宇宙」と呼ぶ。本書では「10の500乗種類」の計算の根拠が示されていた。
- ひも理論の双対性、カラビ-ヤウ空間の双対性について詳しい解説がされている。どちらも双対性があるおかげで方程式の解を求める作業を大幅に減らすことができる。物理学にとっても数学にとっても双対性は重要な性質であることが、多くの例を使って紹介されていた。
- カラビ-ヤウ空間はコニフォールド転移という方法で変形することで、ひも理論にある問題を解く必要がでてくる。コニフォールドというのは円錐形の尖った突起である。多様体ではこのようにおかしな物体を貼り付けたり、取ったりして研究を進めるそうだ。「初級講座弦理論 基礎編:B.ツヴィーバッハ」でもオービフォールドと呼ばれる円錐形の空間での計算が紹介されていて、僕は「なぜ、こんな不自然な空間を持ち出さなければならないのだろう?計算練習のためだろうか?」と不思議に思っていたのだが、その理由が本書を読んで理解できた。
- ひも理論は物理学を統一する理論であるが、カラビ-ヤウ多様体はひも理論に恩恵を与えただけでなく、相異なる数学のそれぞれの分野を統一するという役割を果たしたそうだ。仮に将来ひも理論が正しくないことが証明されてしまったとしても、カラビ-ヤウ多様体の存在意義はじゅうぶん過ぎるほど残るのだ。数学の理論は一度証明されれば永遠に否定されることのない「真理」であることがよく理解できた。
- ハイゼンベルクの不確定性原理により10のマイナス30乗cm程度のプランクスケールの世界では、時空は「泡だってしまい」、幾何学が成り立たなくなると予想されている。これは幾何学の終焉を意味するのだろうか?その後の幾何学は「量子幾何学」になるのかもしれないと予想されているが、それがどのようなものかは全くわかっていない。このあたりについての物理学者やヤウ博士のお考えはとても興味深かった。
- 本書の記述が公平であること。ひも理論に対して否定的な立場をとる物理学者や元物理学者も数多くいる。ひも理論やカラビ-ヤウ多様体はまだまだ解明されていなことばかりだ。著者はポジティブなことだけでなく、ネガティブなこと、今後解決が予想されていることなど、お感じになっていることを誠実に語り、ひも理論と現代幾何学の現在の状況を正確に読者に伝える努力を払っている。
数式が苦手な方も、そして専門的に複素多様体、複素幾何学を学ぼうとしている学生にとっても刺激の多い本、ためになる本である。ぜひ読んでいただきたい。
翻訳の元になった英語版は2010年に刊行されたこの本だ。Kindle版は1200円ほどで買えるのでお勧めだ。英語版には本書に登場する物理学者や数学者の写真が掲載されている。これらの写真は日本語版には掲載されていない。
「The Shape of Inner Space: String Theory and the Geometry of the Universe's Hidden Dimensions: Shing-Tung Yau, Steve Nadis」(Kindle版)
最後に本書を翻訳した水谷淳さんによる本書の紹介を書いておこう(「訳者あとがき」)
本書は、カラビ=ヤウ多様体という、ひも理論において中心的な役割を果たしている数学的概念を、その生みの親であり、その呼び名にも自らの名が冠されている大物数学者本人が解説した本である。とくに、数学と物理学という本来別々の分野が、カラビ=ヤウ多様体をめぐってどのような影響を及ぼしあいながら進歩しているかが、事細かに述べられている。執筆においては、何冊もの本を書いている気鋭のサイエンスライターが共著者として手助けしており、難解な諸概念をできるだけ平易に説明している。登場する数学的概念の多くは多次元に関係しており、また完全に理解するには高度な数学や抽象的思考に頼らなければならないが、本書は、低次元における身近な例や比喩などを用い、できる限り具体的なイメージを伝えようとしている。専門的に勉強したいのではなく、あくまでもこの分野の全体像を直感的に知りたいという読者には、十分だろう。そして何よりも、主著者がどのような半生を贈り、何を考えながら研究を進めてきたかが詳しく語られており、とても興味深い。
重力の理論である一般相対論と、原子や素粒子の世界を記述する量子力学はいずれも、本来ニュートン力学では用いられない、より高度な数学によって記述されている。それらの数学はそもそも、物理学とは関係なしに純粋数学として考え出されたが、のちに物理学者が、自然現象を記述する上できわめて有用であることに気づき、物理学に応用するようになった。
それと同じことが再び起ころうとしている。現在、一般相対論と量子力学を統一してさらに広範囲な現象を説明できる万物理論の候補として、ひも理論の研究が盛んにおこなわれているが、そこでは相対論や量子力学に用いられているものよりさらに高度な数学が必要である。その一つが、カラビ=ヤウ多様体を含む、微分幾何学や多様体の理論といった高等な幾何学だ。
一方で、ひも理論研究者が独自に考え出した概念が、逆に数学にとって重要な役割を果たし、数学の研究を前進させている。数学者である主著者も、もともと物理学とは無関係に研究をおこなっていたが、ひも理論の進展に促されながらさらなる研究を進めている。
最終的にひも理論が究極の万物理論として正しいかどうかは、現段階ではわからない。しかし、ひも理論の研究を進めていくことで、自然現象の理解が進むとともに、数学もまた新たな発展を見せるだろう。最先端の数学はわたしたち一般人の直感が遠く及ばないところへ進んでいくかもしれないが、本書のように専門家がときにかみ砕いて解説してくれれば、これからも何とか置き去りにされずについていけるだろう。
主著者のシン=トゥン・ヤウは1945年に中国広東省で生まれ、現在はハーヴァード大学数学科教授を務めている。本文で詳しく語られているとおり、かなりの苦労人で努力家だ。香港中文大学を卒業したのちに、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得し、その後はアメリカで研究を進めている。数々の賞を受賞しており、中でも1982年には、数学界のノーベル賞とも呼ばれるフィールズメダルを受賞した。
共著者のスティーヴ・ネイディスは、フリーのサイエンスライター。天文雑誌『アストロノミー・マガジン』の寄稿編集員を務めている。執筆活動は天文学に限らず科学技術全般にわたっており、科学雑誌『ネイチャー』、『サイエンス』、『サイエンティフィック・アメリカン』などでも記事を書いている。一般向けの科学本も多数執筆している。
最後になったが、一部訳語についてアドバイスをいただいたカリフォルニア工科大学の大栗博司教授と、編集作業を丁寧に進めてくださった岩波書店の辻村希望氏に深く感謝申し上げる。(とね註:辻村氏の「辻」のしんにょうの点は1つ)
2012年2月
訳者
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「見えざる宇宙のかたち―ひも理論に秘められた次元の幾何学:シン=トゥン・ヤウ、スティーヴ・ネイディス」
"空間/時間"(詩)
はしがき
序:来たるべきものの形
1:余白の中の宇宙
2:自然の秩序には幾何が潜んでいる
3:新たなる"金槌"
4:真であるには、できすぎている
5:カラビ予想の証明
6:ひも理論のDNA
7:鏡を通してみれば
8:時空のよじれ
9:現実世界に立ち戻る
10:カラビ=ヤウを超えて
11:ほころびる宇宙
12:余剰次元を探す
13:真理、美、そして数学
14:幾何学の終焉?
エピローグ:新しい日、新しいドーナツ
あとがき:神聖なる場所へ
"長い夜の一瞬のきらめき"(詩)
訳者あとがき
注
用語解説
索引