「量子力学10講:谷村 省吾」
内容紹介:
肝心な筋道だけをコンパクトにまとめた、待望の教科書。古典力学との対応にこだわることなく、量子力学をそれ自身で完結したものとして捉え、確率振幅からエンタングルメントや調和振動子まで、明快に記述。線形代数がわかれば、量子力学もわかる!
なお、谷村先生が本書刊行後に執筆された補足「量子力学10講 補足ノート」は随時更新されていて、「書誌情報のページ」からダウンロードできる。
2021年11月4日刊行、200ページ
著者:
谷村 省吾(たにむら しょうご)
HP: http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/
Twitter: @tani6s
名古屋市に生まれる(1967年)。名古屋大学工学部卒業(1990年)、名古屋大学大学院理学研究科博士課程修了、博士(理学)。日本学術振興会特別研究員(東京大学)、京都大学助手・講師、大阪市立大学助教授、京都大学准教授を経て、現在は名古屋大学大学院情報学研究科教授。
専 門:理論物理、主に量子論、力学系理論、応用微分幾何
著 書:
『幾何学から物理学へ――物理を圏論・微分幾何の言葉で語ろう』(サイエンス社、2019年)
『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何――双対性の視点から』(サイエンス社、2006年)
『ゼロから学ぶ数学・物理の方程式』(講談社、2005年)ほか
理数系書籍のレビュー記事は本書で467冊目。
今年は「量子力学の新しい教科書元年」と呼ぶにふさわしい年になった。堀田先生の「入門 現代の量子力学」が刊行されたと思ったら、ほぼ同じ時期に井田先生の「現代量子力学入門」が刊行されていることに気がついた。このブログではそれぞれ紹介記事をすでに書いている。
さて、次は量子力学以外の本を読もうかと思った矢先に刊行されたのが今回紹介する「量子力学10講:谷村 省吾」だ。堀田先生や井田先生の教科書とどのように違うのか。1冊だけ取りこぼしておくわけにはいかない。SNSで調べた限り評価はすこぶる良い。必読書であるのは明らかだった。
本書は著者の谷村先生が学部で教えている量子力学の授業のための講義ノートをもとに執筆された。しかしこの授業は8回の講義であるため内容が体系的に伝わらず、もどかしく思っていたそうだ。そこで「最初から最後まで読めば量子力学の一番肝心の筋道はきっとわかるだろうと言える一冊の本」にするため以下の10回の講義としてまとめたものである。
第1講 量子力学の考え方
第2講 状態を表すベクトル
第3講 物理量を表す演算子
第4講 行列表示とユニタリ変換と対角化
第5講 位置と運動量
第6講 可換物理量と結合確率
第7講 非可換物理量の量子効果
第8講 複合系とエンタングルメント
第9講 運動方程式
第10講 調和振動子
内容は、有限次元のヒルベルト空間上の演算子を物理量とする量子力学をメインにしている。無限次元ヒルベルト空間こそ量子力学の本格的な舞台であり、それに比べると、有限次元の量子力学というのはだいぶスケールの小さい話になるのだが、量子力学の骨組みを理解したい初学者には、無限次元空間の手ごわいところ(非有界演算子の出現や、自己共役演算子とエルミート演算子の相違など)を見せつけるよりは手を動かして計算できる有限次元の例を見せたほうがよい。それでも無限次元空間上の正準交換関係は扱っている。また古典力学(解析力学)のシステムを量子化したり、古典力学の欠陥が見つかって量子力学が作られていった歴史をたどったりするアプローチはとらず、ストレートに量子力学の話をしている。
現代的な視点から量子力学を学ぶために必要な数学の基礎は、まぎれもなく(複素)線形代数である。堀田先生や井田先生の教科書もこの点は同じで、線形代数の解説から始まっている。しかし、本書はこれら2冊よりもずっと初学者向けに書かれていることが読み始めてすぐわかる。また、線形代数と現実の物理学の対象とのつながりが早い段階で簡潔に示されている。これは(数学よりも)物理に関心があって読み始める初学者がモチベーションを維持するために有効だと思った。
また、線形代数の計算を2次元、3次元の行列・ベクトルのに具体的な数をあてはめて行なっているので、量子力学を構成する原理との関連付けが身近かなものに感じられ、抽象的な線形代数の計算に慣れていない読者に明確なイメージを持つのに大いに役立っている。きちんと理解できれば、本書に書かれている「線形代数を学んで量子力学を学ばないのはもったいない」という意味がよくわかることだろう。
それが顕著に感じられるのが第7講「非可換物理量の量子効果」と第8講「複合系とエンタングルメント」で、本書で感じる高揚感がピークに達する。ここでは以下のような量子力学特有の現象を線形代数の計算をすることによって確認することができるのだ。
- 非可換な物理量について同時に確定する物理量は存在しない
- 波束の収縮
- 干渉効果
- 物理量の和と値の和の不一致
- ロバートソンの不確定性関係、ケナードの不確定性関係、コヒーレント状態
- エンタングルメント
このような高揚感が得られるようになるには、事前に線形代数をじゅうぶんに理解しておくのは必要だ。自信がない方には「線型代数[改訂版]: 長谷川浩司」を読むことをお勧めする。この教科書は物理学科で学ぶ学生にとって最良な教科書だと思うし、本書を学ぶのに十分すぎる内容をカバーしている。
理解しやすい本というのは読んでいて楽しいものだ。本書は堀田先生や井田先生の教科書とは違い、読み始めたらやめられなくなった。食べだしたら止まらない「かっぱえびせん」のようである。(このたとえ話が通じるのは何歳以上の人だろうか?参考動画)
本書は堀田先生の教科書よりずっと易しいし、カバーする内容はより量子力学の本質に限定している。初学者向けの本としては本書が最良の選択だと思う。本書で学んだ後、堀田先生の教科書をお読みになるとよい。
これまでの古いタイプの教科書とは異なり、これら現代的な量子力学の教科書3冊について共通しているのは、次の点である。
- 複素線形代数の解説から始めている。
- 精密な量子測定理論の重要性を強調している。
- シュレーディンガー方程式、ハイゼンベルクの方程式は本の後半または最後のほうで解説している。
また、現代的な教科書3冊には、古いタイプの教科書では解説されている以下の項目がないという点も共通している。
- 散乱の計算、摂動論
- 井戸型ポテンシャルやトンネル効果の計算
- バンド理論
- 多粒子系、量子統計力学
つまり、素粒子物理、半導体技術、物性物理系の理論に通じる基礎がこれら3冊には書かれていない。これらの内容は既存の教科書で学ぶか、現代的な視点から応用編として新しい教科書が書かれるのを待てばよいのかもしれないと思った。
以下、本書の各講の冒頭に書かれている文章を書き写しておく。参考にしていただきたい。
第1講 量子力学の考え方
量子力学は原子や電子などミクロの世界のものたちの性質や運動を数学的に書き表し、ミクロの世界の現象を予測するための理論である。本講では量子力学で扱われるミクロ世界と古典力学で扱われるマクロ世界の違いを観察し、量子力学の中核に位置する確率振幅の概念を導入する。また、量子力学に欠かせない数学的言語である複素数の定義と性質を確認する。
第2講 状態を表すベクトル
前講で確率振幅という概念を導入したが、確率振幅の絶対値の2乗を計算すれば確率が求められるという規則を示しただけであり、確率振幅そのものの値を決めることはできなかった。系の状態を表すベクトルからなるヒルベルト空間という概念を導入すると、状態ベクトルの内積で確率振幅を求めることができるようになる。本講では状態・物理量・値という力学の基本概念を整理し、ヒルベルト空間を定義し、その例を挙げ、状態ベクトルの物理的解釈を説明する。
第3講 物理量を表す演算子
量子力学では、物理量をヒルベルト空間上の演算子で表す。とくに自己共役演算子は、固有値が実数であり、異なる固有値に属する固有ベクトルが直交し、一次独立な固有ベクトル全部を集めたものが基底(完全系)になるという著しい性質を持つ。その性質のおかげで、自己共役演算子の固有値を物理量の測定値と解釈し、自己共役演算子の固有ベクトルを物理量の値が確定している状態と解釈し、固有ベクトルと一般の状態ベクトルとの内積は固有値が測定値として作られる確率を与える確率振幅だとする解釈が無理なくできて、量子力学と現実世界との首尾一貫した対応が可能になる。
第4講 行列表示とユニタリ変換と対角化
本講では、抽象的なベクトルや演算子を具体的な数値データ列である数ベクトルや行列で表示する方法を解説する。抽象的な形のまま分析した方が見通しがよい問題もあるし、具体的な形があると計算が進む問題もあるので、抽象と具象を使うのだが、CONS(正規直交系)はただ一通りではなく、たくさんあり、選んだCONSによってベクトルや演算子の具体的表示は異なる、CONSの選び換えに伴う具体表示の変換規則がユニタリ変換である。
第5講 位置と運動量
古典力学においては、粒子がどこにあってどんな速度で動いているかということは基本的な「知るべきこと」であり、粒子の位置と運動量は重要な物理量である。量子力学においても粒子の位置と運動量は重要な物理量であるが、それらは演算子で表される。1周の長さが2aであるような円周上を動く粒子を考えて、a → ∞とする極限操作によって直線上の粒子の量子力学を構成すると、運動量波動関数の確率解釈が自然に導かれるし、フーリエ級数とフーリエ積分の関係も見通せるので、そういうアプローチで説明する。
第6講 可換物理量と結合確率
物理量は単独でも意味があるが、物理量が2つ以上あると、それらの和や積などの代数演算ができるようになり、2つの物理量の値の相関関係も現れて、システムはよりリッチな性質を帯びる。本講では相関関係を記述するための基本的な道具として結合確率の概念を導入し、量子力学では可換な物理量の値に関する結合確率は状態ベクトルと同時固有ベクトルとの内積で求められることを示す。
第7講 非可換物理量の量子効果
物理量演算子 A^、B^ の積が順序に依存して A^B^≠B^A^ となるなら A^ と B^ は非可換であるという。物理量の積の非可換性は量子力学の根本的な特長であり、古典力学と量子力学の相違点はすべて非可換性に起因すると言ってよい。本講では、不確定性関係・波束の収縮・干渉効果・物理量の値の同時非実在性など量だけに注目している限り古典力学と量子力学の目立った違いはなく、2つ以上の非可換物理量に注目したときに初めて量子力学ならではの性質や現象が顕在化する。本書全体を通して本講が最大の山場である。
第8講 複合系とエンタングルメント
複合系とは、その名のとおり、複数の系を合わせた系である。多数の粒子からなる系は必然的に複合系であることから、複合系はきわめてありふれている。量子力学では複合系を記述するためにヒルベルト空間のテンソル積という数学的概念を用いる。テンソル積状態を重ね合わせた状態においては、2つの系が古典力学では説明できない相関を持つことがあり、それを量子もつれ状態あるいはエンタングル状態(entangled state)と呼ぶ。また、量子もつれ状態に独特の性質をエンタングルメント(entanglement)という。エンタングルメントは量子コンピュータにおいて基本的なリソースとみなされており、近年、量子情報科学の興隆に伴って注目されている。
第9講 運動方程式
時間の経過に伴って系の状態や物理量の値は変化する。これらの変化を数学的に記述し予測することは古典力学でも量子力学でも基本的な課題である。とくに量子力学には、状態の変化を扱うシュレーディンガー方程式と、物理量の変化を扱うハイゼンベルク方程式がある。物理的な状況を表す適切な方程式を立てること、方程式を解くこと、解の物理的意味を考えることができるようになってほしい。
第10講 調和振動子
調和振動子(harmonic oscillator)は、変位に比例する復元力を受けて動く質点であり、古くから研究されていて、いまなお応用が広がっている力学系である。調和振動子の最も重要な応用は時計であろう。調和振動子は、振れ幅が大きいときも小さいときも往復に要する時間が等しいという性質(振り子の等時性)があり、ゆえに振り子の往復回数を数えれば時間を測ることができる。ガリレオは(小振幅の)重力振り子の等時性に気づいたが、クォーツ時計も原子時計も最新の光格子時計も、振動の回数を数えて時間を刻むという点は共通している。空気の振動は音、電流の振動は交流電流、電磁場の振動は電磁波(光)、固体中の原子の振動は熱であり、振動は我々が目にし、耳にし、体で感じる普遍的な物理現象だと言える。また、電磁波の熱的性質や電磁波と原子の相互作用は古典力学では説明できないという事実の発見が、量子論の発端でもあった。さらに調和振動子の量子力学は、場の量子論や量子光学などの発展分野にもつながっている。そういったことを意識して、本講では古典力学との対応も踏まえつつ、やや多めの紙数を費やして調和振動子について解説する。本講の最初の2節では古典力学の調和振動子を扱うが、それについて熟知している読者は最初の2節は飛ばして10-3節から読んでもらえばよい。また、10-6節では振動系の特性パラメータであるインピーダンスという概念について解説する。
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線型代数[改訂版]: 長谷川浩司
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線形代数学入門のための教科書談義
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「量子力学10講:谷村 省吾」
まえがき
第1講 量子力学の考え方
1-1 ミクロの世界の構成要素
1-2 ボールと水面波と電子
1-3 確率振幅
1-4 複素数の絶対値2乗
第2講 状態を表すベクトル
2-1 古典力学と量子力学の共通点
2-2 古典力学と量子力学の相違点
2-3 ヒルベルト空間
2-4 コーシー・シュワルツの不等式
2-5 確 率
2-6 量子力学における確率解釈
2-7 ヒルベルト空間の例
2-8 基 底
2-9 展開公式の幾何学的意味
第3講 物理量を表す演算子
3-1 演算子
3-2 エルミート共役
3-3 自己共役演算子
3-4 演算子の固有値
3-5 自己共役演算子の固有値・固有ベクトル
3-6 固有値が縮退している場合
3-7 固有値と測定値の関係
3-8 射影演算子とスペクトル分解
第4講 行列表示とユニタリ変換と対角化
4-1 抽象ベクトルの数ベクトル表示
4-2 抽象演算子の行列表示
4-3 ユニタリ変換
4-4 対角化
4-5 トレース
第5講 位置と運動量
5-1 無限次元ヒルベルト空間の必要性
5-2 円周上の粒子
5-3 直線上の粒子
第6講 可換物理量と結合確率
6-1 結合確率
6-2 可換な物理量の結合確率
6-3 縮退がある場合
第7講 非可換物理量の量子効果
7-1 同時確定状態の非存在
7-2 波束の収縮
7-3 干渉効果
7-4 干渉項としての非対角項
7-5 物理量の和と値の和の不一致
7-6 ロバートソンの不確定性関係
7-7 ケナードの不確定性関係
第8講 複合系とエンタングルメント
8-1 複合系
8-2 ヒルベルト空間のテンソル積
8-3 テンソル積空間における内積と確率解釈
8-4 演算子のテンソル積
8-5 テンソル積の成分表示
8-6 エンタングル状態
第9講 運動方程式
9-1 時間変化を扱う必要性
9-2 シュレーディンガー方程式
9-3 エネルギー固有状態は定常状態
9-4 2状態系の時間発展
9-5 ハイゼンベルク方程式
第10講 調和振動子
10-1 バネとおもり
10-2 古典力学の調和振動子の解
10-3 量子力学の調和振動子
10-4 調和振動子のエネルギー固有値
10-5 調和振動子の波動関数
10-6 インピーダンス
付録A 数学記号の書き方
付録B 複素数の性質
参考文献
演習問題の略解
索 引
内容紹介:
肝心な筋道だけをコンパクトにまとめた、待望の教科書。古典力学との対応にこだわることなく、量子力学をそれ自身で完結したものとして捉え、確率振幅からエンタングルメントや調和振動子まで、明快に記述。線形代数がわかれば、量子力学もわかる!
なお、谷村先生が本書刊行後に執筆された補足「量子力学10講 補足ノート」は随時更新されていて、「書誌情報のページ」からダウンロードできる。
2021年11月4日刊行、200ページ
著者:
谷村 省吾(たにむら しょうご)
HP: http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/
Twitter: @tani6s
名古屋市に生まれる(1967年)。名古屋大学工学部卒業(1990年)、名古屋大学大学院理学研究科博士課程修了、博士(理学)。日本学術振興会特別研究員(東京大学)、京都大学助手・講師、大阪市立大学助教授、京都大学准教授を経て、現在は名古屋大学大学院情報学研究科教授。
専 門:理論物理、主に量子論、力学系理論、応用微分幾何
著 書:
『幾何学から物理学へ――物理を圏論・微分幾何の言葉で語ろう』(サイエンス社、2019年)
『理工系のためのトポロジー・圏論・微分幾何――双対性の視点から』(サイエンス社、2006年)
『ゼロから学ぶ数学・物理の方程式』(講談社、2005年)ほか
理数系書籍のレビュー記事は本書で467冊目。
今年は「量子力学の新しい教科書元年」と呼ぶにふさわしい年になった。堀田先生の「入門 現代の量子力学」が刊行されたと思ったら、ほぼ同じ時期に井田先生の「現代量子力学入門」が刊行されていることに気がついた。このブログではそれぞれ紹介記事をすでに書いている。
さて、次は量子力学以外の本を読もうかと思った矢先に刊行されたのが今回紹介する「量子力学10講:谷村 省吾」だ。堀田先生や井田先生の教科書とどのように違うのか。1冊だけ取りこぼしておくわけにはいかない。SNSで調べた限り評価はすこぶる良い。必読書であるのは明らかだった。
本書は著者の谷村先生が学部で教えている量子力学の授業のための講義ノートをもとに執筆された。しかしこの授業は8回の講義であるため内容が体系的に伝わらず、もどかしく思っていたそうだ。そこで「最初から最後まで読めば量子力学の一番肝心の筋道はきっとわかるだろうと言える一冊の本」にするため以下の10回の講義としてまとめたものである。
第1講 量子力学の考え方
第2講 状態を表すベクトル
第3講 物理量を表す演算子
第4講 行列表示とユニタリ変換と対角化
第5講 位置と運動量
第6講 可換物理量と結合確率
第7講 非可換物理量の量子効果
第8講 複合系とエンタングルメント
第9講 運動方程式
第10講 調和振動子
内容は、有限次元のヒルベルト空間上の演算子を物理量とする量子力学をメインにしている。無限次元ヒルベルト空間こそ量子力学の本格的な舞台であり、それに比べると、有限次元の量子力学というのはだいぶスケールの小さい話になるのだが、量子力学の骨組みを理解したい初学者には、無限次元空間の手ごわいところ(非有界演算子の出現や、自己共役演算子とエルミート演算子の相違など)を見せつけるよりは手を動かして計算できる有限次元の例を見せたほうがよい。それでも無限次元空間上の正準交換関係は扱っている。また古典力学(解析力学)のシステムを量子化したり、古典力学の欠陥が見つかって量子力学が作られていった歴史をたどったりするアプローチはとらず、ストレートに量子力学の話をしている。
現代的な視点から量子力学を学ぶために必要な数学の基礎は、まぎれもなく(複素)線形代数である。堀田先生や井田先生の教科書もこの点は同じで、線形代数の解説から始まっている。しかし、本書はこれら2冊よりもずっと初学者向けに書かれていることが読み始めてすぐわかる。また、線形代数と現実の物理学の対象とのつながりが早い段階で簡潔に示されている。これは(数学よりも)物理に関心があって読み始める初学者がモチベーションを維持するために有効だと思った。
また、線形代数の計算を2次元、3次元の行列・ベクトルのに具体的な数をあてはめて行なっているので、量子力学を構成する原理との関連付けが身近かなものに感じられ、抽象的な線形代数の計算に慣れていない読者に明確なイメージを持つのに大いに役立っている。きちんと理解できれば、本書に書かれている「線形代数を学んで量子力学を学ばないのはもったいない」という意味がよくわかることだろう。
それが顕著に感じられるのが第7講「非可換物理量の量子効果」と第8講「複合系とエンタングルメント」で、本書で感じる高揚感がピークに達する。ここでは以下のような量子力学特有の現象を線形代数の計算をすることによって確認することができるのだ。
- 非可換な物理量について同時に確定する物理量は存在しない
- 波束の収縮
- 干渉効果
- 物理量の和と値の和の不一致
- ロバートソンの不確定性関係、ケナードの不確定性関係、コヒーレント状態
- エンタングルメント
このような高揚感が得られるようになるには、事前に線形代数をじゅうぶんに理解しておくのは必要だ。自信がない方には「線型代数[改訂版]: 長谷川浩司」を読むことをお勧めする。この教科書は物理学科で学ぶ学生にとって最良な教科書だと思うし、本書を学ぶのに十分すぎる内容をカバーしている。
理解しやすい本というのは読んでいて楽しいものだ。本書は堀田先生や井田先生の教科書とは違い、読み始めたらやめられなくなった。食べだしたら止まらない「かっぱえびせん」のようである。(このたとえ話が通じるのは何歳以上の人だろうか?参考動画)
本書は堀田先生の教科書よりずっと易しいし、カバーする内容はより量子力学の本質に限定している。初学者向けの本としては本書が最良の選択だと思う。本書で学んだ後、堀田先生の教科書をお読みになるとよい。
これまでの古いタイプの教科書とは異なり、これら現代的な量子力学の教科書3冊について共通しているのは、次の点である。
- 複素線形代数の解説から始めている。
- 精密な量子測定理論の重要性を強調している。
- シュレーディンガー方程式、ハイゼンベルクの方程式は本の後半または最後のほうで解説している。
また、現代的な教科書3冊には、古いタイプの教科書では解説されている以下の項目がないという点も共通している。
- 散乱の計算、摂動論
- 井戸型ポテンシャルやトンネル効果の計算
- バンド理論
- 多粒子系、量子統計力学
つまり、素粒子物理、半導体技術、物性物理系の理論に通じる基礎がこれら3冊には書かれていない。これらの内容は既存の教科書で学ぶか、現代的な視点から応用編として新しい教科書が書かれるのを待てばよいのかもしれないと思った。
以下、本書の各講の冒頭に書かれている文章を書き写しておく。参考にしていただきたい。
第1講 量子力学の考え方
量子力学は原子や電子などミクロの世界のものたちの性質や運動を数学的に書き表し、ミクロの世界の現象を予測するための理論である。本講では量子力学で扱われるミクロ世界と古典力学で扱われるマクロ世界の違いを観察し、量子力学の中核に位置する確率振幅の概念を導入する。また、量子力学に欠かせない数学的言語である複素数の定義と性質を確認する。
第2講 状態を表すベクトル
前講で確率振幅という概念を導入したが、確率振幅の絶対値の2乗を計算すれば確率が求められるという規則を示しただけであり、確率振幅そのものの値を決めることはできなかった。系の状態を表すベクトルからなるヒルベルト空間という概念を導入すると、状態ベクトルの内積で確率振幅を求めることができるようになる。本講では状態・物理量・値という力学の基本概念を整理し、ヒルベルト空間を定義し、その例を挙げ、状態ベクトルの物理的解釈を説明する。
第3講 物理量を表す演算子
量子力学では、物理量をヒルベルト空間上の演算子で表す。とくに自己共役演算子は、固有値が実数であり、異なる固有値に属する固有ベクトルが直交し、一次独立な固有ベクトル全部を集めたものが基底(完全系)になるという著しい性質を持つ。その性質のおかげで、自己共役演算子の固有値を物理量の測定値と解釈し、自己共役演算子の固有ベクトルを物理量の値が確定している状態と解釈し、固有ベクトルと一般の状態ベクトルとの内積は固有値が測定値として作られる確率を与える確率振幅だとする解釈が無理なくできて、量子力学と現実世界との首尾一貫した対応が可能になる。
第4講 行列表示とユニタリ変換と対角化
本講では、抽象的なベクトルや演算子を具体的な数値データ列である数ベクトルや行列で表示する方法を解説する。抽象的な形のまま分析した方が見通しがよい問題もあるし、具体的な形があると計算が進む問題もあるので、抽象と具象を使うのだが、CONS(正規直交系)はただ一通りではなく、たくさんあり、選んだCONSによってベクトルや演算子の具体的表示は異なる、CONSの選び換えに伴う具体表示の変換規則がユニタリ変換である。
第5講 位置と運動量
古典力学においては、粒子がどこにあってどんな速度で動いているかということは基本的な「知るべきこと」であり、粒子の位置と運動量は重要な物理量である。量子力学においても粒子の位置と運動量は重要な物理量であるが、それらは演算子で表される。1周の長さが2aであるような円周上を動く粒子を考えて、a → ∞とする極限操作によって直線上の粒子の量子力学を構成すると、運動量波動関数の確率解釈が自然に導かれるし、フーリエ級数とフーリエ積分の関係も見通せるので、そういうアプローチで説明する。
第6講 可換物理量と結合確率
物理量は単独でも意味があるが、物理量が2つ以上あると、それらの和や積などの代数演算ができるようになり、2つの物理量の値の相関関係も現れて、システムはよりリッチな性質を帯びる。本講では相関関係を記述するための基本的な道具として結合確率の概念を導入し、量子力学では可換な物理量の値に関する結合確率は状態ベクトルと同時固有ベクトルとの内積で求められることを示す。
第7講 非可換物理量の量子効果
物理量演算子 A^、B^ の積が順序に依存して A^B^≠B^A^ となるなら A^ と B^ は非可換であるという。物理量の積の非可換性は量子力学の根本的な特長であり、古典力学と量子力学の相違点はすべて非可換性に起因すると言ってよい。本講では、不確定性関係・波束の収縮・干渉効果・物理量の値の同時非実在性など量だけに注目している限り古典力学と量子力学の目立った違いはなく、2つ以上の非可換物理量に注目したときに初めて量子力学ならではの性質や現象が顕在化する。本書全体を通して本講が最大の山場である。
第8講 複合系とエンタングルメント
複合系とは、その名のとおり、複数の系を合わせた系である。多数の粒子からなる系は必然的に複合系であることから、複合系はきわめてありふれている。量子力学では複合系を記述するためにヒルベルト空間のテンソル積という数学的概念を用いる。テンソル積状態を重ね合わせた状態においては、2つの系が古典力学では説明できない相関を持つことがあり、それを量子もつれ状態あるいはエンタングル状態(entangled state)と呼ぶ。また、量子もつれ状態に独特の性質をエンタングルメント(entanglement)という。エンタングルメントは量子コンピュータにおいて基本的なリソースとみなされており、近年、量子情報科学の興隆に伴って注目されている。
第9講 運動方程式
時間の経過に伴って系の状態や物理量の値は変化する。これらの変化を数学的に記述し予測することは古典力学でも量子力学でも基本的な課題である。とくに量子力学には、状態の変化を扱うシュレーディンガー方程式と、物理量の変化を扱うハイゼンベルク方程式がある。物理的な状況を表す適切な方程式を立てること、方程式を解くこと、解の物理的意味を考えることができるようになってほしい。
第10講 調和振動子
調和振動子(harmonic oscillator)は、変位に比例する復元力を受けて動く質点であり、古くから研究されていて、いまなお応用が広がっている力学系である。調和振動子の最も重要な応用は時計であろう。調和振動子は、振れ幅が大きいときも小さいときも往復に要する時間が等しいという性質(振り子の等時性)があり、ゆえに振り子の往復回数を数えれば時間を測ることができる。ガリレオは(小振幅の)重力振り子の等時性に気づいたが、クォーツ時計も原子時計も最新の光格子時計も、振動の回数を数えて時間を刻むという点は共通している。空気の振動は音、電流の振動は交流電流、電磁場の振動は電磁波(光)、固体中の原子の振動は熱であり、振動は我々が目にし、耳にし、体で感じる普遍的な物理現象だと言える。また、電磁波の熱的性質や電磁波と原子の相互作用は古典力学では説明できないという事実の発見が、量子論の発端でもあった。さらに調和振動子の量子力学は、場の量子論や量子光学などの発展分野にもつながっている。そういったことを意識して、本講では古典力学との対応も踏まえつつ、やや多めの紙数を費やして調和振動子について解説する。本講の最初の2節では古典力学の調和振動子を扱うが、それについて熟知している読者は最初の2節は飛ばして10-3節から読んでもらえばよい。また、10-6節では振動系の特性パラメータであるインピーダンスという概念について解説する。
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「量子力学10講:谷村 省吾」
まえがき
第1講 量子力学の考え方
1-1 ミクロの世界の構成要素
1-2 ボールと水面波と電子
1-3 確率振幅
1-4 複素数の絶対値2乗
第2講 状態を表すベクトル
2-1 古典力学と量子力学の共通点
2-2 古典力学と量子力学の相違点
2-3 ヒルベルト空間
2-4 コーシー・シュワルツの不等式
2-5 確 率
2-6 量子力学における確率解釈
2-7 ヒルベルト空間の例
2-8 基 底
2-9 展開公式の幾何学的意味
第3講 物理量を表す演算子
3-1 演算子
3-2 エルミート共役
3-3 自己共役演算子
3-4 演算子の固有値
3-5 自己共役演算子の固有値・固有ベクトル
3-6 固有値が縮退している場合
3-7 固有値と測定値の関係
3-8 射影演算子とスペクトル分解
第4講 行列表示とユニタリ変換と対角化
4-1 抽象ベクトルの数ベクトル表示
4-2 抽象演算子の行列表示
4-3 ユニタリ変換
4-4 対角化
4-5 トレース
第5講 位置と運動量
5-1 無限次元ヒルベルト空間の必要性
5-2 円周上の粒子
5-3 直線上の粒子
第6講 可換物理量と結合確率
6-1 結合確率
6-2 可換な物理量の結合確率
6-3 縮退がある場合
第7講 非可換物理量の量子効果
7-1 同時確定状態の非存在
7-2 波束の収縮
7-3 干渉効果
7-4 干渉項としての非対角項
7-5 物理量の和と値の和の不一致
7-6 ロバートソンの不確定性関係
7-7 ケナードの不確定性関係
第8講 複合系とエンタングルメント
8-1 複合系
8-2 ヒルベルト空間のテンソル積
8-3 テンソル積空間における内積と確率解釈
8-4 演算子のテンソル積
8-5 テンソル積の成分表示
8-6 エンタングル状態
第9講 運動方程式
9-1 時間変化を扱う必要性
9-2 シュレーディンガー方程式
9-3 エネルギー固有状態は定常状態
9-4 2状態系の時間発展
9-5 ハイゼンベルク方程式
第10講 調和振動子
10-1 バネとおもり
10-2 古典力学の調和振動子の解
10-3 量子力学の調和振動子
10-4 調和振動子のエネルギー固有値
10-5 調和振動子の波動関数
10-6 インピーダンス
付録A 数学記号の書き方
付録B 複素数の性質
参考文献
演習問題の略解
索 引