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「フィネガンズ・ウェイク: ジェイムズ・ジョイス、柳瀬尚紀 訳」
内容紹介:
数千年の人類の全歴史を酒場の家族の一夜の夢に圧縮した抱腹絶倒、複雑怪奇な傑作の幕開き。今世紀最大の文学的事件、現代文学の偉大なる祖、ヴェールにつつまれた幻の大傑作、ジョイスの死後50年を経て、ついに日本語に!!(ウィキペディアの記事)
単行本:1991年、1993年に刊行、2冊あわせて687ページ。
文庫本:2003年から2004年にかけて刊行、3分冊、各403,410,480ページ。
著者略歴:
ジェイムズ・ジョイス:ウィキペディアの記事
1882.2.2‐1941.1.13。アイルランドのダブリン郊外で出生。20世紀を代表する作家であると同時に世界文学史上の巨星。幼児からカトリック系の教育を受け、ユニヴァーシティ・コレッジ・ダブリンを卒業。1904年秋、ノーラ・バーナクルを伴って、ヨーロッパへ。以後、貧困のうちにトリエステ、パリなど各地を漂泊し、チューリヒに死す。
訳者略歴:
柳瀬尚紀(やなせなおき): 著書、訳書検索
1943年根室市生まれ。早稲田大学大学院修了。英米文学翻訳家。2016年7月30日没。
小説のなかには翻訳者泣かせのものがいくつかある。まず思いつくのは「アルジャーノンに花束を:ダニエル・キイス」(原書)だ。精神的に発達が遅れた主人公が書く「けえかほおこく」という幼児が書くような間違いだらけの文章から始まり、新薬の投与によって精神年齢が高まり天才になっていく過程で書かれる「経過報告」を、原書に合わせて段階的に訳出していく難しさがある。この本を読んだとき、内容だけでなく傑出した翻訳力に驚かされた。
次に思いつくのはルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」(原書)と「鏡の国のアリス」(原書)だ。原書には言葉に二重の意味が込められていたり、詩や言葉遊びが挿入されているからだ。意味がわからない数遊びがあるかと思えば、それは数学パズルだったりする。「謎解き「アリス物語」 不思議の国と鏡の国へ」(Kindle版)のような本をたよりにすれば、理数系の大人でも楽しめる本なのだ。この作品も訳すのにはよほどの工夫と技量が求められる。
しかし、ここまでは英語を母国語とする大人が読めば、原書をちゃんと理解できる作品である。(ルイス・キャロルの数学パズルが解けるかどうかは別として。)
ところが、今日紹介する20世紀を代表する作家、ジェイムズ・ジョイスの遺作となった「フィネガンズ・ウェイク」は、英語圏の読者でも理解不能な超難解小説である。死後50年を経て、単独で日本語訳を完成させたのが、昨年7月にお亡くなりになった天才翻訳家の柳瀬尚紀氏だ。1991年と1993年に単行本が刊行されたときは、出版界、翻訳者の間で大きな話題になった。
理数系の人にとって、柳瀬尚紀氏は「ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環」の翻訳者のおひとりとして記憶にあることだろう。
柳瀬尚紀氏は大のジョイス好きで、翻訳者泣かせの本書を泣く泣く翻訳したわけではなく、自らの愉しみとして全訳したのだ。小説家、文芸評論家の丸山才一氏は「一般に道楽は、このくらゐにならなくては本式とは言へない。立派である。」と賛辞を送っている。
原書でさえ理解不能な小説を、さらに技巧を駆使して日本語にするという離れ業は、本書の難解さをさらに高みに押し上げることであり、話題性に負けじと購入した読者に対して絶壁への挑戦を強制する。売上げが見込めない、このような奇書を単行本として刊行し、そして文庫化までした「河出書房新社」の懐の深さには、頭が下がる。また、1990年代初めは出版業界も余裕があったことがわかる。
最初の1ページをお読みいただければ、本書がどれくらい奇書なのかおわかりいただけるだろう。途中には詩も挿入されているし、この調子が最後まで続くわけである。画像は英日それぞれクリックで拡大するので、ご自身で翻訳にチャレンジしてみてはいかがだろうか?
また、この本は1963年にモデルの提唱者の一人であるマレー・ゲルマン博士が想定される新しい素粒子にクォーク(quark)という名前をつけたときに本書の中の一節 "Three quarks for Muster Mark"から引用したことでも知られている。先日「素粒子標準模型入門: W.N.コッティンガム、D.A.グリーンウッド」を読み、やっとクォークの物理(量子色力学)に馴染んできたので、このタイミングで本書を紹介させていただいたわけだ。
本書でのクォークは鳥の鳴き声で、第4章の冒頭に書かれている。
このように難解で意味不明の小説だが、もちろん物語はある。作品のタイトルとあらすじは、このようなものだそうだ。詳しくは「ウィキペディアの記事」でお読みいただきたい。
表題とその意味
アイルランドに「フィネガンの通夜(Finnegan's Wake)」という民謡がある。梯子から落ちて死んだはずのティム・フィネガンがウィスキーを浴びて息を吹き返すという陽気な伝承バラッドである。このバラッドにジョイス自身の基本的主題「通夜と目覚め(Wake)」、すなわち「死と再生」のバリエーションを見たジョイスは、そのタイトルからアポストロフィーをはずし、最後の大作の表題とした。
作品の内容と登場人物について
ダブリンの西郊外チャペリゾットに一軒の居酒屋があり、その主人イアウィッカーと妻アナとの間には三人の子供がいる。双生児の兄弟シェムとショーン、そして妹イシー。現実の層、歴史の層、神話の層などの多層構造を備え、しかも角層が相互に浸透融合する夢の世界『ウェイク』において、現実層の中核をなすのは二十世紀初頭、と推定されるある夜から明け方にかけてのこの居酒屋での出来事である。この主人公は講演で出会った二人の少女をめぐっておぞましい噂をたてられている。それは三人の少年あるいは兵士に目撃され、四人の老人によって論じられ、酒場の常連十二人のゴシップ種となってひろまってゆくが、反復して語られていくうちに歪められ、原罪の発端をなすアダム以来のすべての男を巻きこむにいたるけれども、事件の真相は不明のままである。なにしろこれは「One thousand and one stories, all told, of the same」であるから、絶対的に確実なのは同一対象は視点の移動によって変容するという絶対的不確実性のみなのだ。『ウェイク』は実体概念が後景に退き、関係概念が前景を占める不確定性の回り舞台なのであって、民謡のティム・フィネガンが伝説の巨人フィンに変貌するように、現実次元の出来事はさまざまなアナロジーや連関するモチーフ群を契機として膨張と収縮を繰り返し、柔軟な運動の軌跡を描き出すのである。
単行本は絶版で、お求めになりたい方は「日本の古本屋」で購入できる。(検索してみる)
クリックで拡大
文庫本はこちらからどうぞ。
「フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫) 」
「フィネガンズ・ウェイク 2 (河出文庫)」
「フィネガンズ・ウェイク 3・4 (河出文庫)」
柳瀬尚紀氏がお書きになったガイドブックも刊行されている。
「フィネガン辛航紀―『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本 」
原著でチャレンジする方は、こちらからどうぞ。
「Finnegans Wake: James Joyce 」(Kindle版)
そして驚くことに、この奇書はフランス語やドイツ語にも翻訳されていることをお伝えして、記事をしめくくろう。
フランス語版: Amazon.frで開く
ドイツ語版: Amazon.deで開く
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「フィネガンズ・ウェイク: ジェイムズ・ジョイス、柳瀬尚紀 訳」
内容紹介:
数千年の人類の全歴史を酒場の家族の一夜の夢に圧縮した抱腹絶倒、複雑怪奇な傑作の幕開き。今世紀最大の文学的事件、現代文学の偉大なる祖、ヴェールにつつまれた幻の大傑作、ジョイスの死後50年を経て、ついに日本語に!!(ウィキペディアの記事)
単行本:1991年、1993年に刊行、2冊あわせて687ページ。
文庫本:2003年から2004年にかけて刊行、3分冊、各403,410,480ページ。
著者略歴:
ジェイムズ・ジョイス:ウィキペディアの記事
1882.2.2‐1941.1.13。アイルランドのダブリン郊外で出生。20世紀を代表する作家であると同時に世界文学史上の巨星。幼児からカトリック系の教育を受け、ユニヴァーシティ・コレッジ・ダブリンを卒業。1904年秋、ノーラ・バーナクルを伴って、ヨーロッパへ。以後、貧困のうちにトリエステ、パリなど各地を漂泊し、チューリヒに死す。
訳者略歴:
柳瀬尚紀(やなせなおき): 著書、訳書検索
1943年根室市生まれ。早稲田大学大学院修了。英米文学翻訳家。2016年7月30日没。
小説のなかには翻訳者泣かせのものがいくつかある。まず思いつくのは「アルジャーノンに花束を:ダニエル・キイス」(原書)だ。精神的に発達が遅れた主人公が書く「けえかほおこく」という幼児が書くような間違いだらけの文章から始まり、新薬の投与によって精神年齢が高まり天才になっていく過程で書かれる「経過報告」を、原書に合わせて段階的に訳出していく難しさがある。この本を読んだとき、内容だけでなく傑出した翻訳力に驚かされた。
次に思いつくのはルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」(原書)と「鏡の国のアリス」(原書)だ。原書には言葉に二重の意味が込められていたり、詩や言葉遊びが挿入されているからだ。意味がわからない数遊びがあるかと思えば、それは数学パズルだったりする。「謎解き「アリス物語」 不思議の国と鏡の国へ」(Kindle版)のような本をたよりにすれば、理数系の大人でも楽しめる本なのだ。この作品も訳すのにはよほどの工夫と技量が求められる。
しかし、ここまでは英語を母国語とする大人が読めば、原書をちゃんと理解できる作品である。(ルイス・キャロルの数学パズルが解けるかどうかは別として。)
ところが、今日紹介する20世紀を代表する作家、ジェイムズ・ジョイスの遺作となった「フィネガンズ・ウェイク」は、英語圏の読者でも理解不能な超難解小説である。死後50年を経て、単独で日本語訳を完成させたのが、昨年7月にお亡くなりになった天才翻訳家の柳瀬尚紀氏だ。1991年と1993年に単行本が刊行されたときは、出版界、翻訳者の間で大きな話題になった。
理数系の人にとって、柳瀬尚紀氏は「ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環」の翻訳者のおひとりとして記憶にあることだろう。
柳瀬尚紀氏は大のジョイス好きで、翻訳者泣かせの本書を泣く泣く翻訳したわけではなく、自らの愉しみとして全訳したのだ。小説家、文芸評論家の丸山才一氏は「一般に道楽は、このくらゐにならなくては本式とは言へない。立派である。」と賛辞を送っている。
原書でさえ理解不能な小説を、さらに技巧を駆使して日本語にするという離れ業は、本書の難解さをさらに高みに押し上げることであり、話題性に負けじと購入した読者に対して絶壁への挑戦を強制する。売上げが見込めない、このような奇書を単行本として刊行し、そして文庫化までした「河出書房新社」の懐の深さには、頭が下がる。また、1990年代初めは出版業界も余裕があったことがわかる。
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また、この本は1963年にモデルの提唱者の一人であるマレー・ゲルマン博士が想定される新しい素粒子にクォーク(quark)という名前をつけたときに本書の中の一節 "Three quarks for Muster Mark"から引用したことでも知られている。先日「素粒子標準模型入門: W.N.コッティンガム、D.A.グリーンウッド」を読み、やっとクォークの物理(量子色力学)に馴染んできたので、このタイミングで本書を紹介させていただいたわけだ。
本書でのクォークは鳥の鳴き声で、第4章の冒頭に書かれている。
このように難解で意味不明の小説だが、もちろん物語はある。作品のタイトルとあらすじは、このようなものだそうだ。詳しくは「ウィキペディアの記事」でお読みいただきたい。
表題とその意味
アイルランドに「フィネガンの通夜(Finnegan's Wake)」という民謡がある。梯子から落ちて死んだはずのティム・フィネガンがウィスキーを浴びて息を吹き返すという陽気な伝承バラッドである。このバラッドにジョイス自身の基本的主題「通夜と目覚め(Wake)」、すなわち「死と再生」のバリエーションを見たジョイスは、そのタイトルからアポストロフィーをはずし、最後の大作の表題とした。
作品の内容と登場人物について
ダブリンの西郊外チャペリゾットに一軒の居酒屋があり、その主人イアウィッカーと妻アナとの間には三人の子供がいる。双生児の兄弟シェムとショーン、そして妹イシー。現実の層、歴史の層、神話の層などの多層構造を備え、しかも角層が相互に浸透融合する夢の世界『ウェイク』において、現実層の中核をなすのは二十世紀初頭、と推定されるある夜から明け方にかけてのこの居酒屋での出来事である。この主人公は講演で出会った二人の少女をめぐっておぞましい噂をたてられている。それは三人の少年あるいは兵士に目撃され、四人の老人によって論じられ、酒場の常連十二人のゴシップ種となってひろまってゆくが、反復して語られていくうちに歪められ、原罪の発端をなすアダム以来のすべての男を巻きこむにいたるけれども、事件の真相は不明のままである。なにしろこれは「One thousand and one stories, all told, of the same」であるから、絶対的に確実なのは同一対象は視点の移動によって変容するという絶対的不確実性のみなのだ。『ウェイク』は実体概念が後景に退き、関係概念が前景を占める不確定性の回り舞台なのであって、民謡のティム・フィネガンが伝説の巨人フィンに変貌するように、現実次元の出来事はさまざまなアナロジーや連関するモチーフ群を契機として膨張と収縮を繰り返し、柔軟な運動の軌跡を描き出すのである。
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「フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫) 」
「フィネガンズ・ウェイク 2 (河出文庫)」
「フィネガンズ・ウェイク 3・4 (河出文庫)」
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「フィネガン辛航紀―『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本 」
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