NHKスペシャルで放送された「神の数式」。この手の番組にしては視聴率が高かったと思っている。第2夜はTBSドラマ「半沢直樹」の最終回と重なっていたため、どちらを先に見ようか迷っていた方もいただろう。実際この2番組の視聴率はいい勝負になっていたのかということも僕は気になった。
第1夜は素粒子の「標準理論」、第2夜は「超弦理論」。この2つの理論がNHKの番組で特集されるのは初めてのことだ。これらの理論以前の物理学を学んでいない一般視聴者に向けてそれぞれ1時間の枠で「もれなく」紹介するのは不可能で、僕の関心は「何を取り上げて、何を捨てるか。」ということだった。もれなく紹介するためにはそれぞれ5時間くらい必要になると思う。(NHKには10時間バージョンの番組も作ってほしい!)
2つめに僕が関心をもっていたのは「どれだけ正確に伝えるか。」ということだった。物理学や数学で使われる言葉と日常用語には違いがある。「意味の伝わりやすさ」を優先して不正確な日常用語を採用するか、説明の時間を割いてでも専門用語を使ってごまかしのない形を採るかという選択だ。
3つめは、視聴者の関心を引くために「どのような表現スタイルにするか」ということである。物理学講座のように「勉強」っぽいイメージを強調すると視聴者は逃げていくし、SF番組っぽく作ったり、ことさら「神」を強調するスタイルを採ると興味をもつ視聴者は増えるがアカデミックさや内容の正確さは損なわれてしまう。
だから僕の感想文としてはこれら3つの観点から番組で紹介された内容がどうだったのかを取上げてみようと思う。放送時間は2話で2時間という制限があったのだから不正確な点、漏れてしまった点がでてくるのは十分承知している。重箱の隅を突くような不満として述べているのではないことをまずお断りしておこう。
神の数式:第1回 この世は何からできているのか
NHKオンデマンド:http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2013050887SC000/index.html
何を捨てていたか(何を省略していたか)
- 特殊相対性理論、量子力学の説明がされていなかった。
素粒子物理学の「標準理論」は「場の量子論」という分野の集大成だ。その理論を理解するためにはニュートン力学、電磁気学、特殊相対性理論、量子力学のあらましを知っている必要がある。それらを紹介するには最低でもそれぞれ10分はかけなくてはならないので省略されていた。ちなみにローレンツ収縮は特殊相対性理論と関連している。
- ディラックの電子の理論で、陽電子や反物質の紹介がされていなかった。
ディラックの電子の理論から導かれる結論として電子の自転と磁力が紹介されていたが、彼の理論で最も重要なのは陽電子の予言である。これによって反物質の存在が示された。「標準理論」は物質だけでなく反物質のことも含む理論である。
- 標準理論を構成する素粒子が17種類であることの紹介がなかった。
ヒッグス粒子が「標準理論」で説明される最後の素粒子であることは紹介されていたが、この理論で素粒子は全部で17種類あることの説明はなかった。紹介されていたクォークも u と d の2つだけだったから、クォーク6つ(u d, s c, t b)のからくりを説明する2008年に南部先生と一緒にノーベル物理学賞を受賞した小林先生、益川先生の功績も紹介されていなかった。時間が足りなかったのだ。
- ヒッグス博士の紹介が省略されていた。
標準理論の立役者はワインバーグ博士であることは紹介されていたが、ヒッグス博士の紹介はなかった。せめて顔写真を大写しで紹介してほしかった。
- 「電磁気学」の説明がなかったこと
電磁気力のしくみを解明したのはオッペンハイマーだと番組では紹介したが、マックスウェルのことを思い出した人もいたと思う。(僕もそのひとり。)正確に言えば「古典電磁気学」を完成させたのがマックスウェルで、オッペンハイマーは「量子電磁力学」を使って素粒子レベルでの「電磁気力」のしくみを解明したわけである。古典電磁気学では電子と原子核が引き合うクーロンの法則(逆2乗則)が知られていたが、なぜクーロン力が生じるかは理解できていなかった。量子電磁力学で「光子の交換」によってクーロン力が生じるということが解明されたのだ。
でもどちらの理論も知らない人にとっては、今回のような放送内容でよかったのだと後になって僕は思った。
- 標準理論の数式の左辺のL(ラグランジアン)の説明がなかったこと
ラグランジアンは解析力学という分野で学ぶとても重要な物理量だ。とはいえこの説明をすると30分くらいかかるだろうから、省略されてしまうのは無理もないこと。
専門用語と日常用語、内容の正確さ
- 「質量」と「重さ」
番組では「重さ」と表現していたが、正しくは「質量」である。
- 自発的対称性の破れの説明が間違っていた
鉛筆が倒れるのが自発的対称性の破れの説明に使われていたが説明の仕方が間違っていた。
倒れるという現象の理由は自発的対称性の破れではなく量子力学の不確定性原理によるものだ。量子力学を省略していたため、このことに言及することなく間違った説明になってしまっていた。自発的対称性の破れの説明に「倒れる鉛筆」を引き合いにすることがあるが「倒れる方向が揃うか、揃わないか」ということが大切なのである。詳細は次のページで理解してほしい。
自発的対称性の破れと素粒子物理学
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/40/4/features/03.html
- シュレディンガー方程式で偏微分の「階数」のことを「個数」と表現していた
ディラック方程式を導く過程の出発点。シュレディンガー方程式の偏微分の階数を「時間について1個」、「空間について2個」と表現していたが、数学的には話にならない。でもここで微分方程式の話をするわけにはいかないから、一般視聴者向けの番組ということで目をつぶろう。
- ヒッグス粒子(ヒッグス場)に質量の起源の説明は間違っていた
たくさんのヒッグス粒子の間を電子が動いているアニメーションで質量の起源が説明されていたが、これは完全に誤った説明だ。これではヒッグス粒子の場が粘性をもっているように思えてしまう。かといって日常的なたとえ話でこのからくりをうまく説明している例を僕はまだ見たことがないのだが。。。
表現のスタイル(学問的にするか一般受けするスタイルにするか)
- 「神の数式」という表現以外、特に気になる日常用語はなかった。「神の数式」という表現についての感想は第2話のほうに書いておく。
神の数式:第2回 宇宙はどこから来たのか
何を捨てていたか(何を省略していたか)
- 超弦理論はまだ宇宙の5パーセントしか解明していないことを説明していなかった
超弦理論をもってしても、人類はまだ全宇宙の5パーセントを占める物質の物理現象しか解明できていないのだ。それを言ってしまうと番組の面白さが半減すると番組制作者は考えたのだろうか?
- ブラックホールの事象の地平線の説明がなかった
ブラックホール中心の特異点の紹介はされていたが、事象の地平線について言及していなかったため話の流れがわかりにくいものになってしまっていた。
- 弦理論がなぜ超弦理論になったのか説明されていなかった
25次元の弦理論が10次元の超弦理論になった過程が示されていなかった。けれどもそのためにはボゾンとフェルミオンのことや超対称性の話をしないといけないので時間的に無理なことである。
- ウィッテン博士、M理論、ポルチンスキー博士のDブレーンの説明がなかった
時間の制限により仕方のないことだが、ウィッテン博士のお名前くらいは表示してほしかった。超弦理論には5つのタイプがあり、それら5つは双対性のウェブと呼ばれる関係で結びついてM理論が完成した。
専門用語と日常用語、内容の正確さ
- 一般相対性理論の説明で「空間」の歪みだけが示されていた。
質量によって歪むのは「空間」だけでなく「空間と時間」であることが説明されていなかった。
- 弦に色がついていた、閉じた弦しか図示されていなかった
超弦理論の弦には「閉じた弦」と「開いた弦」がある。アニメーションでは輪ゴムのような「閉じた弦」しか表示されていなかった。美しく見せるために弦にさまざまな色付けがされていたのは可笑しかった。弦に「色」などついていない。
- 「異次元」という用語
「異次元」という言葉はSFっぽ過ぎる。正しくは「余剰次元」なのだが、一般視聴者にはわかりにくい言葉だから日常用語(?)ですませたのだと思った。
- ブロンスタインは標準理論と何を統合しようとしたのかが明確に示されていなかった。
若くしてスターリンに粛清されてしまったロシアの天才物理学者ブロンスタインの研究が紹介されていた。けれども番組では彼があたかも重力理論と標準理論を統合しようとしていたかのように放送されていた。標準理論が完成するのは彼の死後のことである。彼が統合しようとしていたのは何の理論なのかが正確に表現されていなかった。ブロンスタインは量子重力理論を研究していた物理学者である。であるから彼が統一しようとしていたのは量子力学と重力理論だ。この番組では量子力学を省略していたので、この点についての正確さが犠牲になってしまった。
表現のスタイル(学問的にするか一般受けするスタイルにするか)
- 「神の数式」という表現
「神の数式」という言い方は明らかに大げさだ。けれども番組の注目度を上げ一般受けするためにこの番組タイトルにしたのだと僕は理解している。この番組の文脈での「神」はもちろん宗教的なものではなく「この世界の創造主」という意味にすぎない。超弦理論は「万物の理論」、「究極の理論」の最有力候補と現在みなされている。けれども人類がこれまで解明した物理学で理解できているのはこの宇宙全体のたった5パーセントに過ぎない。本当の意味で「万物の理論」、「究極の理論」になるのは残り95パーセントが解明されてからのことだ。
番組を見逃した方はNHKオンデマンドからご覧になってほしい。また、もっと正確に詳しく知りたいという方は大栗博司先生の著書3冊をお読みになるとよいだろう。
重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る:大栗博司
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/f63cdcd45ec542fa62d535b4cc715d69
素粒子の「標準理論」について知りたい方はこの本をどうぞ。
強い力と弱い力:大栗博司
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/06c3fdc3ed4e0908c75e3d7f20dd7177
大栗先生の超弦理論入門:大栗博司 → 必見
http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/75dfba6307d01a5d522d174ea3e13863
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Dブレーン―超弦理論の高次元物体が描く世界像:橋本幸士
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