「ディープラーニングと物理学 原理がわかる、応用ができる:田中章詞、富谷昭夫、橋本幸士」(Kindle版)(参考書籍)
内容紹介:
人工知能技術の中枢をなす深層学習と物理学との繋がりを俯瞰する。物理学者ならではの視点で原理から応用までを説く、空前の入門書。物理は機械学習に役立つ!機械学習は物理に役立つ!
2019年6月22日刊行、286ページ。
著者について:
田中章詞: 研究者情報、arXiv.org論文
博士(理学)。2014年大阪大学大学院理学研究科物理学専攻博士後期課程修了。現在、理化学研究所特別研究員(革新知能統合研究センター/数理創造プログラム)
富谷昭夫: ホームページ、Twitter: @TomiyaAkio、arXiv.org論文
博士(理学)。2014年大阪大学大学院理学研究科物理学専攻博士後期課程修了。現在、理化学研究所基礎科学特別研究員(理研BNL研究センター計算物理研究グループ)
橋本幸士: ホームページ、Twitter: @hashimotostring、arXiv.org論文
理学博士。1973年生まれ、大阪育ち。1995年京都大学理学部卒業、2000年京都大学大学院理学研究科修了。理学博士。サンタバーバラ理論物理学研究所、東京大学、理化学研究所などを経て、2012年より、大阪大学大学院理学研究科教授。専門は理論物理学、弦理論。
理数系書籍のレビュー記事は本書で419冊目。
6月22日の発売以来、爆発的に売れている理系本である。ツイッターから「ディープラーニングと物理学で検索」してみると人気のほどがおわかりだと思う。発売からひと月もたたないのに第4刷の重版出来を達成した。僕はKindle版で読んだ。
物理学の研究に機械学習、特にディープラーニングが使われていることを初めて耳にしたとき、にわかに信じられなかった。将棋AIがそうだなのだが、この技術は過去のデータを学習して結果を得るものだ。物理学のように新しい発見を生み出すような技術ではないと思っていたからだ。(参考記事:「人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?: 山本一成」)
コンピュータが物理学の研究に利用されていたことはもちろん知っている。しかし、それはアインシュタインの重力方程式をシミュレーションとして解いたり、流体力学の方程式を解いたり、モンテカルロ法のように統計的な処理をしたり、素粒子の衝突実験のデータ解析に使われたりするなどの例だ。どれも人間の限られた計算能力を補うだけで、新しい法則を発見する類いのものではない。
けれども、この研究の旗振り役はあの橋本幸士先生だ。自分の勝手な先入観で解釈すべきではない。とりあえず話を聞いてみようとでかけたのが、昨年8月に行われた「AI(人工知能)と物理学:1日目、2日目」だった。そして10月にはMathPowerという数学イベントの中で行われた「深層学習と時空」という橋本先生の講演も聴講させていただいた。講演で先生はディープラーニングの手法を使って「時空が創発される」様子を紹介されていた。時空の創発とは、何もない状態から時間と空間が生まれる宇宙の始まりのことである。この講演は動画で公開されているので、記事のリンクからたどってご覧になってみるとよい。
2つの講演を聴いて「なんだかすごいことが始まっている。」というのがよくわかった。機械学習、特にニューラルネットワークと物理学はとても似ているらしい。講演を聴く限り確かにそう思う。でも、たまたま構造が似ていて、概念の対応関係があるから物理の問題解決につながると言ってよいのだろうか?期待をかけすぎではないかという気持が僕にはあった。そして「時空の創発」だなんて、研究が始まったばかりなのにハードルが高過ぎる。
この研究は世界中で盛んにおこなわれているそうだ。日本では橋本先生のチームだけでなく、昨年8月の講演会で聴講して知ったように、日本の他の研究者も機械学習を物理の研究に取り入れている。何かすごいことが始まっている事実は否定できない。
講演時間は限られている。詳しく知りたいというフラストレーションが昨年から続いていたのだ。もやもやが本書を読むことで解消される。売れ行きが好調なのも、同じ気持の方が多いからだと思う。
読み始めて思ったこと
ニューラルネットワークは統計力学の問題を解くのに向いていることがすぐわかった。そして、物理学の「逆問題」を解くことになるのだという。逆問題は、つい先日講談社ブルーバックスから復刊している『プリンシピア』の流れでアイザック・ニュートンが解けなかった逆問題のことを「万有引力の法則(逆2乗則)の逆問題を解説する本と動画」という記事に書いたばかりである。
問題を解く通常の方法に対し、アプローチが逆になっているものを、一般に「逆問題」と呼んでいる。逆問題のもつ一般的な性質として、次のようなものがある。
- 直接的に測ることができない対象を知ること
- 結果から原因を推定すること
- データから物理法則や支配方程式を決定すること
- 物理定数を決定すること
そして昨年秋の「第59回 神田古本まつり」で、たまたま買った「天体力学のパイオニアたち 上、下」がきっかけで「ポアンカレ 常微分方程式 -天体力学の新しい方法-」や「力学系カオス: 松葉育雄」を読むことになり、力学系を理解し始めたところだった。ところが本書によれば力学系もニューラルネットワークで扱う対象だという。(第9章:力学系とニューラルネットワーク)
このように僕の知識のネットワークの中で、たまたま自然につながった本だとわかり、読書のモチベーションが高まった。
本書の構成、内容
章立てはこのとおりである。
第1章 はじめに:機械学習と物理学
【第I部 物理から見るディープラーニングの原理】
第2章 機械学習の一般論
第3章 ニューラルネットワークの基礎
第4章 発展的なニューラルネットワーク
第5章 サンプリングの必要性と原理
第6章 教師なし深層学習
【第II部 物理学への応用と展開】
第7章 物理学における逆問題
第8章 相転移をディープラーニングで見いだせるか
第9章 力学系とニューラルネットワーク
第10章 スピングラスとニューラルネットワーク
第11章 量子多体系、テンソルネットワークとニューラルネットワーク
第12章 超弦理論への応用
第13章 おわりに
序文が熱い。次のように強烈なことが書かれている。
じつは、機械学習の礎は物理的な概念に起因していると考えることができます。物理系を特徴づけるハミルトニアンが、様々な機械学習の構造を特徴づけています。また、ハミルトニアンによる統計物理が、ニューラルネットワークによる学習を決めているのです。さらに、学習と汎化により逆問題を解くという行為そのものが物理学の進展に本質的に関係しているという言い方もできます。こういった理由から、近年の機械学習と物理の横断領域の研究が飛躍的に進展しているのです。
ハミルトニアンというのは、問題にしている物理系全体のエネルギーをあらわす関数のことで解析力学の概念であり、解析力学は古典力学から量子物理、素粒子物理でも成り立つ普遍な力学、汎用性が高い力学体系だ。ということは機械学習が物理のあらゆる領域で使えると言っているようなものである。これには驚かされた。
第I部では、機械学習のいくつかの手法に入門しながら、物理学とどのようにかかわっているかを解説する。なんとかついていけるが、数式の箇所は導出手順や意味を確認するだけで、なかなか実感がわかない。こういうものは自分で数式からプログラムに落とす作業をしないと理解し、ものにすることができない。実践系の本で試すことが必要だ。ただし、物理とどのように関わるのかは、よくわかるように書かれているから、読み進むにつれて興味が増していく。
特に興味深かったのは、人間の記憶というものがニューラルネットワークの中で生じる力学系のアトラクターではないだろうかというアイデアだ。力学系の教科書でアトラクターは学んでいたから、説明が理解しやすかった。
第II部は、期待をはるかに超えた面白さだった。物理の逆問題について理解した後、相転移という統計力学の問題、ハミルトン力学系の問題、スピングラスの問題、量子多体系の問題、超弦理論の問題への応用と実行結果が紹介される。機械学習、ニューラルネットワークであっても、適用する問題ごとにアプローチや手法が改善されていく。これまでに参加した講演会で紹介されていなかったのは、ハミルトン系の問題、スピングラスの問題である。
特にためになったのは超弦理論への応用だ。ニューラルネットの手法を学ぶだけでなく、超弦理論で解決できていない2つの逆問題、つまりコンパクト化の問題とホログラフィー原理(そのひとつがAdS/CFT対応)の問題、の意味を理解できたので、これまで読んだ本には書かれていない知識を得ることができた。
最終章の「おわりに」では、執筆された3人の先生方が、それぞれの想いを吐露されている。どのような方が書いたのかを知って、本書への愛着がさらに増した。
読後の感想、参考文献
機械学習の勉強が浅いため、第I部は難しく第II部のほうが読みやすかった。本書を買う人は物理学系、数理物理系の人が大半だと思うが、物理学や数学が苦手なコンピュータサイエンス系、プログラマ系の人もいると思う。そのような人は第I部のほうを易しく感じるのだろうか?
機械学習と本書で扱っている物理学の両方を知っていないと、読み解くのはなかなか難しいはずだ。こんなにたくさん売れていて、理解不能になって困っている方もいるのではないだろうか?
せっかく買ったのに、さっぱりわからないのではもったいない。復刊している『プリンシピア』のように、持っているだけで喜びに満たされ、机の上に置いて映える本ではないのだ。(参考:『プリンシピア』の難易度に関するアンケート)買ったものの予備知識不足に気がついた人がいるにちがいない。自分のことを棚にあげ、他人の心配を優先する性格である。
自分がこれまでに読んで紹介した本のうち、本書を理解するのに役立つものを参考書籍として紹介してみよう。本書には巻末にたくさんの参考文献があげられているから、そこからも自分が読んでみたい和書を含めてまとめておこう。こうして書いてみたのが「『ディープラーニングと物理学』の参考書籍」という記事である。
本書は専門書だから参考文献も難しい本が多い。僕は本書のレベルに合った専門的なものと、入門者向けのやさしいレベルのものを分け、それぞれ流れに沿った形で一覧にしておいた。本書をお買い求めになった方は、参考にしていただきたい。
解析解派、数値解派、そして機械学習派?
ところで一昨日、ツイッター上で「解析解派(厳密解派)」と「数値解派」がどちらが望ましいのかと活発に議論していた。(議論を見てみる)
発端は物理系の方だったと思う。理論の構築を目指す人、数理物理系の人ならば解析解派が多いような気がした。物性物理系や素粒子物理系の人は数値解派が多いのだと思う。機械学習系や工学系だとさらに数値解派が増えるように感じた。数学系だとおそらく解析解派が多いのではないだろうか?とかく人は自分が身を置いている領域、理想を描いていることに沿って考えを決めているように思えた。
しかし物理学はしょせん近似であることがほとんどだ。テイラー展開も、摂動論もそうである。自然の問題、社会の問題はたいてい近似として解ければよいではないか。一昨日の段階では、このような着地点で議論が収束した。
物理の問題をディープラーニングで解き始めたことで、3つ目の「宗派?」が生まれたのだと思う。それはこれまでのように「数値」や「誤差」の違いではなく、解き方や得られる結果の「質」の違いであり、計算のトレーサビリティの難しさという新たな要素が加わったからだ。
いずれにせよ、人間では計算不可能なことをコンピュータにさせるのは正しいと思う。10の500乗ものバリエーションがある超弦理論のカラビ-ヤウ多様体を調べるのは手計算では不可能な問題だ。本書で示されたように「逆問題」がそのケースにあたるのだということが、よく理解できた。ちなみに今年の4月10日に公表された「ブラックホールをとらえた史上初の画像」も複数の電波望遠鏡から得たデータをスパースモデリングという機械学習で計算した「逆問題」としての解だという。
ツイッター上の議論には、次のようなオチを僕はツイートしておいた。
アイザック・ニュートンはどちらの宗派に属していたのだろう。www
#解析解 #数値解 #厳密解
拡大: ニュートンによる手計算
機械学習+物理学という切り口の本では日本初である。今後の発展を楽しみにしつつ、一読者としてこのスタートラインを共有できたことが、何よりうれしかった。
本書に関連するarXiv.orgの論文:
Deep Learning and AdS/CFT
https://arxiv.org/abs/1802.08313
AdS/CFT as a deep Boltzmann machine
https://arxiv.org/abs/1903.04951
Deep Learning and Holographic QCD
https://arxiv.org/abs/1809.10536
関連記事:
『ディープラーニングと物理学』の参考書籍
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/da7337791b63e739bd77c8fe6d9bda41
「AI(人工知能)と物理学」:1日目
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/c8bc23afafd9e9b3d7eff92b781d1f8b
「AI(人工知能)と物理学」:2日目
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e8c08583785cfd8237966389e92c362e
深層学習と時空:橋本幸士先生 #MathPower
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/bf7e7e661246866943c765bdd371248f
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「ディープラーニングと物理学 原理がわかる、応用ができる:田中章詞、富谷昭夫、橋本幸士」(Kindle版)(参考書籍)
序文
第1章 はじめに:機械学習と物理学
・1.1 情報理論ことはじめ
・1.2 物理学と情報理論
・1.3 機械学習と情報理論
・1.4 機械学習と物理学
【第I部 物理から見るディープラーニングの原理】
第2章 機械学習の一般論
・2.1 機械学習の目的
・2.2 機械学習とオッカムの剃刀
・2.3 確率的勾配降下法
・コラム:確率論と情報理論
第3章 ニューラルネットワークの基礎
・3.1 誤差関数とその統計力学的理解
・3.2 ブラケット記法による誤差逆伝播法の導出
・3.3 ニューラルネットワークの万能近似定理
・コラム:統計力学と量子力学
第4章 発展的なニューラルネットワーク
・4.1 畳み込みニューラルネットワーク
・4.2 再帰的ニューラルネットワークと誤差逆伝播
・4.3 LSTM
・コラム:カオスの縁と計算可能性の創発
第5章 サンプリングの必要性と原理
・5.1 中心極限定理と機械学習における役割
・5.2 様々なサンプリング法
・5.3 詳細釣り合いを満たすサンプリング法
・コラム:イジング模型からホップフィールド模型へ
第6章 教師なし深層学習
・6.1 教師なし学習
・6.2 ボルツマンマシン
・6.3 敵対的生成ネットワーク
・6.4 生成モデルの汎化について
・コラム:自己学習モンテカルロ法
【第II部 物理学への応用と展開】
第7章 物理学における逆問題
・7.1 逆問題と学習
・7.2 逆問題における正則化
・7.3 逆問題と物理学的機械学習
・コラム:スパースモデリング
第8章 相転移をディープラーニングで見いだせるか
・8.1 相転移とは
・8.2 ニューラルネットワークを使った相転移検出
・8.3 ニューラルネットワークは何を見ているのか
第9章 力学系とニューラルネットワーク
・9.1 微分方程式とニューラルネットワーク
・9.2 ハミルトン力学系の表示
第10章 スピングラスとニューラルネットワーク
・10.1 ホップフィールド模型とスピングラス
・10.2 記憶とアトラクター
・10.3 同期と階層化
第11章 量子多体系、テンソルネットワークとニューラルネットワーク
・11.1 波動関数をニューラルネットで
・11.2 テンソルネットワークとニューラルネットワーク
第12章 超弦理論への応用
・12.1 超弦理論における逆問題
・12.2 曲がった時空はニューラルネットワーク
・12.3 ニューラルネットで創発する時空
・12.4 QCDから創発する時空
・コラム:ブラックホールと情報
第13章 おわりに
謝辞
参考文献
内容紹介:
人工知能技術の中枢をなす深層学習と物理学との繋がりを俯瞰する。物理学者ならではの視点で原理から応用までを説く、空前の入門書。物理は機械学習に役立つ!機械学習は物理に役立つ!
2019年6月22日刊行、286ページ。
著者について:
田中章詞: 研究者情報、arXiv.org論文
博士(理学)。2014年大阪大学大学院理学研究科物理学専攻博士後期課程修了。現在、理化学研究所特別研究員(革新知能統合研究センター/数理創造プログラム)
富谷昭夫: ホームページ、Twitter: @TomiyaAkio、arXiv.org論文
博士(理学)。2014年大阪大学大学院理学研究科物理学専攻博士後期課程修了。現在、理化学研究所基礎科学特別研究員(理研BNL研究センター計算物理研究グループ)
橋本幸士: ホームページ、Twitter: @hashimotostring、arXiv.org論文
理学博士。1973年生まれ、大阪育ち。1995年京都大学理学部卒業、2000年京都大学大学院理学研究科修了。理学博士。サンタバーバラ理論物理学研究所、東京大学、理化学研究所などを経て、2012年より、大阪大学大学院理学研究科教授。専門は理論物理学、弦理論。
理数系書籍のレビュー記事は本書で419冊目。
6月22日の発売以来、爆発的に売れている理系本である。ツイッターから「ディープラーニングと物理学で検索」してみると人気のほどがおわかりだと思う。発売からひと月もたたないのに第4刷の重版出来を達成した。僕はKindle版で読んだ。
物理学の研究に機械学習、特にディープラーニングが使われていることを初めて耳にしたとき、にわかに信じられなかった。将棋AIがそうだなのだが、この技術は過去のデータを学習して結果を得るものだ。物理学のように新しい発見を生み出すような技術ではないと思っていたからだ。(参考記事:「人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?: 山本一成」)
コンピュータが物理学の研究に利用されていたことはもちろん知っている。しかし、それはアインシュタインの重力方程式をシミュレーションとして解いたり、流体力学の方程式を解いたり、モンテカルロ法のように統計的な処理をしたり、素粒子の衝突実験のデータ解析に使われたりするなどの例だ。どれも人間の限られた計算能力を補うだけで、新しい法則を発見する類いのものではない。
けれども、この研究の旗振り役はあの橋本幸士先生だ。自分の勝手な先入観で解釈すべきではない。とりあえず話を聞いてみようとでかけたのが、昨年8月に行われた「AI(人工知能)と物理学:1日目、2日目」だった。そして10月にはMathPowerという数学イベントの中で行われた「深層学習と時空」という橋本先生の講演も聴講させていただいた。講演で先生はディープラーニングの手法を使って「時空が創発される」様子を紹介されていた。時空の創発とは、何もない状態から時間と空間が生まれる宇宙の始まりのことである。この講演は動画で公開されているので、記事のリンクからたどってご覧になってみるとよい。
2つの講演を聴いて「なんだかすごいことが始まっている。」というのがよくわかった。機械学習、特にニューラルネットワークと物理学はとても似ているらしい。講演を聴く限り確かにそう思う。でも、たまたま構造が似ていて、概念の対応関係があるから物理の問題解決につながると言ってよいのだろうか?期待をかけすぎではないかという気持が僕にはあった。そして「時空の創発」だなんて、研究が始まったばかりなのにハードルが高過ぎる。
この研究は世界中で盛んにおこなわれているそうだ。日本では橋本先生のチームだけでなく、昨年8月の講演会で聴講して知ったように、日本の他の研究者も機械学習を物理の研究に取り入れている。何かすごいことが始まっている事実は否定できない。
講演時間は限られている。詳しく知りたいというフラストレーションが昨年から続いていたのだ。もやもやが本書を読むことで解消される。売れ行きが好調なのも、同じ気持の方が多いからだと思う。
読み始めて思ったこと
ニューラルネットワークは統計力学の問題を解くのに向いていることがすぐわかった。そして、物理学の「逆問題」を解くことになるのだという。逆問題は、つい先日講談社ブルーバックスから復刊している『プリンシピア』の流れでアイザック・ニュートンが解けなかった逆問題のことを「万有引力の法則(逆2乗則)の逆問題を解説する本と動画」という記事に書いたばかりである。
問題を解く通常の方法に対し、アプローチが逆になっているものを、一般に「逆問題」と呼んでいる。逆問題のもつ一般的な性質として、次のようなものがある。
- 直接的に測ることができない対象を知ること
- 結果から原因を推定すること
- データから物理法則や支配方程式を決定すること
- 物理定数を決定すること
そして昨年秋の「第59回 神田古本まつり」で、たまたま買った「天体力学のパイオニアたち 上、下」がきっかけで「ポアンカレ 常微分方程式 -天体力学の新しい方法-」や「力学系カオス: 松葉育雄」を読むことになり、力学系を理解し始めたところだった。ところが本書によれば力学系もニューラルネットワークで扱う対象だという。(第9章:力学系とニューラルネットワーク)
このように僕の知識のネットワークの中で、たまたま自然につながった本だとわかり、読書のモチベーションが高まった。
本書の構成、内容
章立てはこのとおりである。
第1章 はじめに:機械学習と物理学
【第I部 物理から見るディープラーニングの原理】
第2章 機械学習の一般論
第3章 ニューラルネットワークの基礎
第4章 発展的なニューラルネットワーク
第5章 サンプリングの必要性と原理
第6章 教師なし深層学習
【第II部 物理学への応用と展開】
第7章 物理学における逆問題
第8章 相転移をディープラーニングで見いだせるか
第9章 力学系とニューラルネットワーク
第10章 スピングラスとニューラルネットワーク
第11章 量子多体系、テンソルネットワークとニューラルネットワーク
第12章 超弦理論への応用
第13章 おわりに
序文が熱い。次のように強烈なことが書かれている。
じつは、機械学習の礎は物理的な概念に起因していると考えることができます。物理系を特徴づけるハミルトニアンが、様々な機械学習の構造を特徴づけています。また、ハミルトニアンによる統計物理が、ニューラルネットワークによる学習を決めているのです。さらに、学習と汎化により逆問題を解くという行為そのものが物理学の進展に本質的に関係しているという言い方もできます。こういった理由から、近年の機械学習と物理の横断領域の研究が飛躍的に進展しているのです。
ハミルトニアンというのは、問題にしている物理系全体のエネルギーをあらわす関数のことで解析力学の概念であり、解析力学は古典力学から量子物理、素粒子物理でも成り立つ普遍な力学、汎用性が高い力学体系だ。ということは機械学習が物理のあらゆる領域で使えると言っているようなものである。これには驚かされた。
第I部では、機械学習のいくつかの手法に入門しながら、物理学とどのようにかかわっているかを解説する。なんとかついていけるが、数式の箇所は導出手順や意味を確認するだけで、なかなか実感がわかない。こういうものは自分で数式からプログラムに落とす作業をしないと理解し、ものにすることができない。実践系の本で試すことが必要だ。ただし、物理とどのように関わるのかは、よくわかるように書かれているから、読み進むにつれて興味が増していく。
特に興味深かったのは、人間の記憶というものがニューラルネットワークの中で生じる力学系のアトラクターではないだろうかというアイデアだ。力学系の教科書でアトラクターは学んでいたから、説明が理解しやすかった。
第II部は、期待をはるかに超えた面白さだった。物理の逆問題について理解した後、相転移という統計力学の問題、ハミルトン力学系の問題、スピングラスの問題、量子多体系の問題、超弦理論の問題への応用と実行結果が紹介される。機械学習、ニューラルネットワークであっても、適用する問題ごとにアプローチや手法が改善されていく。これまでに参加した講演会で紹介されていなかったのは、ハミルトン系の問題、スピングラスの問題である。
特にためになったのは超弦理論への応用だ。ニューラルネットの手法を学ぶだけでなく、超弦理論で解決できていない2つの逆問題、つまりコンパクト化の問題とホログラフィー原理(そのひとつがAdS/CFT対応)の問題、の意味を理解できたので、これまで読んだ本には書かれていない知識を得ることができた。
最終章の「おわりに」では、執筆された3人の先生方が、それぞれの想いを吐露されている。どのような方が書いたのかを知って、本書への愛着がさらに増した。
読後の感想、参考文献
機械学習の勉強が浅いため、第I部は難しく第II部のほうが読みやすかった。本書を買う人は物理学系、数理物理系の人が大半だと思うが、物理学や数学が苦手なコンピュータサイエンス系、プログラマ系の人もいると思う。そのような人は第I部のほうを易しく感じるのだろうか?
機械学習と本書で扱っている物理学の両方を知っていないと、読み解くのはなかなか難しいはずだ。こんなにたくさん売れていて、理解不能になって困っている方もいるのではないだろうか?
せっかく買ったのに、さっぱりわからないのではもったいない。復刊している『プリンシピア』のように、持っているだけで喜びに満たされ、机の上に置いて映える本ではないのだ。(参考:『プリンシピア』の難易度に関するアンケート)買ったものの予備知識不足に気がついた人がいるにちがいない。自分のことを棚にあげ、他人の心配を優先する性格である。
自分がこれまでに読んで紹介した本のうち、本書を理解するのに役立つものを参考書籍として紹介してみよう。本書には巻末にたくさんの参考文献があげられているから、そこからも自分が読んでみたい和書を含めてまとめておこう。こうして書いてみたのが「『ディープラーニングと物理学』の参考書籍」という記事である。
本書は専門書だから参考文献も難しい本が多い。僕は本書のレベルに合った専門的なものと、入門者向けのやさしいレベルのものを分け、それぞれ流れに沿った形で一覧にしておいた。本書をお買い求めになった方は、参考にしていただきたい。
解析解派、数値解派、そして機械学習派?
ところで一昨日、ツイッター上で「解析解派(厳密解派)」と「数値解派」がどちらが望ましいのかと活発に議論していた。(議論を見てみる)
発端は物理系の方だったと思う。理論の構築を目指す人、数理物理系の人ならば解析解派が多いような気がした。物性物理系や素粒子物理系の人は数値解派が多いのだと思う。機械学習系や工学系だとさらに数値解派が増えるように感じた。数学系だとおそらく解析解派が多いのではないだろうか?とかく人は自分が身を置いている領域、理想を描いていることに沿って考えを決めているように思えた。
しかし物理学はしょせん近似であることがほとんどだ。テイラー展開も、摂動論もそうである。自然の問題、社会の問題はたいてい近似として解ければよいではないか。一昨日の段階では、このような着地点で議論が収束した。
物理の問題をディープラーニングで解き始めたことで、3つ目の「宗派?」が生まれたのだと思う。それはこれまでのように「数値」や「誤差」の違いではなく、解き方や得られる結果の「質」の違いであり、計算のトレーサビリティの難しさという新たな要素が加わったからだ。
いずれにせよ、人間では計算不可能なことをコンピュータにさせるのは正しいと思う。10の500乗ものバリエーションがある超弦理論のカラビ-ヤウ多様体を調べるのは手計算では不可能な問題だ。本書で示されたように「逆問題」がそのケースにあたるのだということが、よく理解できた。ちなみに今年の4月10日に公表された「ブラックホールをとらえた史上初の画像」も複数の電波望遠鏡から得たデータをスパースモデリングという機械学習で計算した「逆問題」としての解だという。
ツイッター上の議論には、次のようなオチを僕はツイートしておいた。
アイザック・ニュートンはどちらの宗派に属していたのだろう。www
#解析解 #数値解 #厳密解
拡大: ニュートンによる手計算
機械学習+物理学という切り口の本では日本初である。今後の発展を楽しみにしつつ、一読者としてこのスタートラインを共有できたことが、何よりうれしかった。
本書に関連するarXiv.orgの論文:
Deep Learning and AdS/CFT
https://arxiv.org/abs/1802.08313
AdS/CFT as a deep Boltzmann machine
https://arxiv.org/abs/1903.04951
Deep Learning and Holographic QCD
https://arxiv.org/abs/1809.10536
関連記事:
『ディープラーニングと物理学』の参考書籍
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/da7337791b63e739bd77c8fe6d9bda41
「AI(人工知能)と物理学」:1日目
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/c8bc23afafd9e9b3d7eff92b781d1f8b
「AI(人工知能)と物理学」:2日目
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/e8c08583785cfd8237966389e92c362e
深層学習と時空:橋本幸士先生 #MathPower
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/bf7e7e661246866943c765bdd371248f
メルマガを書いています。(目次一覧)
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「ディープラーニングと物理学 原理がわかる、応用ができる:田中章詞、富谷昭夫、橋本幸士」(Kindle版)(参考書籍)
序文
第1章 はじめに:機械学習と物理学
・1.1 情報理論ことはじめ
・1.2 物理学と情報理論
・1.3 機械学習と情報理論
・1.4 機械学習と物理学
【第I部 物理から見るディープラーニングの原理】
第2章 機械学習の一般論
・2.1 機械学習の目的
・2.2 機械学習とオッカムの剃刀
・2.3 確率的勾配降下法
・コラム:確率論と情報理論
第3章 ニューラルネットワークの基礎
・3.1 誤差関数とその統計力学的理解
・3.2 ブラケット記法による誤差逆伝播法の導出
・3.3 ニューラルネットワークの万能近似定理
・コラム:統計力学と量子力学
第4章 発展的なニューラルネットワーク
・4.1 畳み込みニューラルネットワーク
・4.2 再帰的ニューラルネットワークと誤差逆伝播
・4.3 LSTM
・コラム:カオスの縁と計算可能性の創発
第5章 サンプリングの必要性と原理
・5.1 中心極限定理と機械学習における役割
・5.2 様々なサンプリング法
・5.3 詳細釣り合いを満たすサンプリング法
・コラム:イジング模型からホップフィールド模型へ
第6章 教師なし深層学習
・6.1 教師なし学習
・6.2 ボルツマンマシン
・6.3 敵対的生成ネットワーク
・6.4 生成モデルの汎化について
・コラム:自己学習モンテカルロ法
【第II部 物理学への応用と展開】
第7章 物理学における逆問題
・7.1 逆問題と学習
・7.2 逆問題における正則化
・7.3 逆問題と物理学的機械学習
・コラム:スパースモデリング
第8章 相転移をディープラーニングで見いだせるか
・8.1 相転移とは
・8.2 ニューラルネットワークを使った相転移検出
・8.3 ニューラルネットワークは何を見ているのか
第9章 力学系とニューラルネットワーク
・9.1 微分方程式とニューラルネットワーク
・9.2 ハミルトン力学系の表示
第10章 スピングラスとニューラルネットワーク
・10.1 ホップフィールド模型とスピングラス
・10.2 記憶とアトラクター
・10.3 同期と階層化
第11章 量子多体系、テンソルネットワークとニューラルネットワーク
・11.1 波動関数をニューラルネットで
・11.2 テンソルネットワークとニューラルネットワーク
第12章 超弦理論への応用
・12.1 超弦理論における逆問題
・12.2 曲がった時空はニューラルネットワーク
・12.3 ニューラルネットで創発する時空
・12.4 QCDから創発する時空
・コラム:ブラックホールと情報
第13章 おわりに
謝辞
参考文献