ひとつ前の記事を書いている最中に、とてつもないニュースが飛び込んできた。あの「リーマン予想」が証明されたというのだ。ドキドキして気もそぞろである。これは今から160年前(日本は幕末)にドイツの数学者「ベルンハルト・リーマン」により提唱された予想で、「ミレニアム懸賞問題」という難問のうちのひとつである。リーマン予想は素数の謎を解明するために必要になる重要なステップと考えられている。そして素数は「ゼータ関数」と深いつながりをもち、宇宙や自然の有り様を決定づける秘密とも結びついているという。
リーマン予想のことは「素数に憑かれた人たち ~リーマン予想への挑戦~:ジョン・ダービーシャー」という本の紹介記事に書いておいたので、よくわかっていない方は、まずこの記事をお読みいただきたい。NHKで放送された番組の画面をお借りすれば、このようなものだ。
この予想を証明したというのが「マイケル・アティヤ」という89歳のイギリスの老数学者である。現代最高の数学者の一人とみなされているし、「アティヤ=シンガーの指数定理」や「ゲージ理論」という素粒子物理の根幹をなす研究をし、大きな業績を残しているから、数学だけでなく物理学の世界でも第一人者なのだ。この大先生が証明したというのだから、大騒ぎになっているわけである。僕も以前、「数学とは何か―アティヤ 科学・数学論集」という記事でアティヤ先生の著書を紹介している。
さらに騒ぎに拍車がかかっているのは、次の2つのことが明らかになったからだ。(アティヤ先生による講演も生中継されていた。)
1) 証明の論文はたった5ページであること。
2) 証明は微細構造定数を導出するという物理学上の研究から、副次的に得られたこと。
証明の論文はたった5ページであること
論文はここに公開されている。
THE RIEMANN HYPOTHESIS (MICHAEL ATIYAH): リーマン予想
https://www.dropbox.com/s/pydoj0a8hguebc6/2018-The_Riemann_Hypothesis.pdf?dl=0
もちろんこの中でアティヤ先生はリーマン予想の証明をされているが、注目すべきはこの論文の最後のほうに書かれている次のことだ。
There are also logical issues that will emerge. To be explicit, the proof of RH in this paper is by contradiction and this is not accepted as valid in ZF, it does require choice. I fully expect that the most general version of the Riemann Hypothesis will be an undecidable problem in the Gödel sense.
日本語訳: いくつかの論理的な問題も現れた。はっきり言えば、この論文におけるリーマン予想の証明は背理法によるものだが、矛盾を導くためには「ツェルメロ=フレンケル(ZF)の公理系」では不十分で「選択公理」を必要とする。そして最も一般的なバージョンのリーマン予想はゲーデルの意味において「非決定的」であることを強く期待している。
補足説明: 選択公理は、それ自身もまたその否定もほかの公理からは証明できないものであること、すなわち独立であることが示されたが、これは「公理的集合論」における大きな成果であろう。なお、ZF(ツェルメロ=フレンケルの公理系)に「一般連続体仮説」を加えると選択公理を証明できる。従って、一般連続体仮説と選択公理は何れもZFとは独立だが、前者の方がより強い主張であると言える。ZFに選択公理を加えた公理系をZFCと呼ぶ。
証明は微細構造定数を導出するという物理学上の研究から、副次的に得られたこと
その論文は17ページあり、ここに公開されている。
THE FINE STRUCTURE CONSTANT (MICHAEL ATIYAH): 微細構造定数
https://drive.google.com/file/d/1WPsVhtBQmdgQl25_evlGQ1mmTQE0Ww4a/view
この論文では素粒子物理を基礎づける「微細構造定数」をトッド関数を使って数学的に導き出している。
トッド関数は関・ベルヌーイ数の母関数としてあらわれるだけでなく、黒体輻射に関するプランクの公式やリーマン・ロッホ問題の位相幾何公式にもその姿を現す。そしてトッド関数を通常のコホモロジー理論と K 理論とにおけるオイラー類の比と理解し直すことで、アティヤ=シンガー指数定理の公式にも結びついていく。(参考資料:「調和級数から指数定理へ - 日本数学会」)
ここで驚くべきことが2つある。1つは微細構造定数を数学的に導出する過程で、オマケのようにリーマン予想の証明が得られたことだ。アティヤ先生の講演で映されたスライドがこれである。
上から翻訳すると、次のことが書かれている。
これがなぜリーマン予想に関係しているのか?
・リーマン予想の証明には新しく強力な方法が要求される
・トッド関数によって微細構造定数αが決まる:
1/α = Ж = 137.035999...
・リーマン予想はボーナス(副次的な成果)である
そしてもう1つは、むしろこちらのほうが衝撃的なのであるが、微細構造定数(そしてその逆数である「結合定数」)は、電磁相互作用の強さを表す物理定数であることだ。自然界と独立した純粋に数学の世界の数(たとえば円周率πやネイピア数eなど)が、自然法則を決定する元になっていることを意味しているからである。
微細構造定数は「物理定数」のひとつであり、物理定数とは値が変化しない物理量のことである。プランク定数や万有引力定数、アボガドロ定数などは非常に有名だ。例えば、光速はこの世で最も速いスカラー量としてのスピードで、ボーア半径は水素の電子の(第一)軌道半径である。これらの値によって自然界の物理的な有り様が決まる。そしてこれらの定数がなぜその値になるかは、まだ解明されておらず、実験や観測によって決定されてきた。
中嶋慧さんのこのツイートによると円周率πが「くりこまれて」微細構造定数の逆数(=結合定数)になるのだそうだ。また微細構造定数は純粋に数学的な「円周率π」や「オイラー定数γ」とも結びついている。(自然界の定数が数学的に決めてられいるということ。これは神秘である。)
T(π)=1/α=137.035999...
で、(1.1)式は
T(γ)/γ = T(π)/π .
γはオイラー定数
また奥村晴彦先生はこのツイートで、「Wylerという人が群論(!)で微細構造定数を求めたというので話題になったことがある」とおっしゃっている。
Wylerによる微細構造の右辺は純粋に数学的な数だけから計算されていることがおわかりだろう。
実験で得られている値とは少し違うが、それでも微細構造定数の逆数である結合定数は有効数字6桁の精度で一致している。
この成果は「NHK数学ミステリー白熱教室」という記事で紹介した「ラングランズ予想」を思い起こさせる。数理物理学の意味深さを思わずにはいられない。
そしてアティヤ先生は、このリーマン予想の論文の最後で、次のことをお書きになっている。
I now pass to the second level. Following the example of α, and the more difficult case of the Gravitational constant G (see 2.6 in THE FINE STRUCTURE CONSTANT (MICHAEL ATIYAH)), I expect that mathematical physics will face issues where logical undecidability will get entangled with the notion of randomness.
私はいま、次のレベルに進んでいる。つまり微細構造定数αに続き、次はより難しい重力定数Gのケース(微細構造定数の論文の2.6を参照)のことだ。私は数理物理学がランダム性の概念と絡み合う論理的な非決定性の問題に直面することを期待している。
なんとも意味深長であり、次は「重力定数G(万有引力定数)」の導出なのだそうだ。
いずれにせよ、日本時間の明日の早朝(9月25日の早朝)に発表があるらしい。証明に疑問を呈する専門家もちらほら見かける。事の成り行きを見守っていくために、この話題のツイートを検索しやすくしておこう。
Twitterで検索する:
リーマン予想 アティヤ ゼータ関数
Atiyah Riemann hypothesis Zeta function
関連記事:
素数に憑かれた人たち ~リーマン予想への挑戦~:ジョン・ダービーシャー
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b15d8fa5e7f3e3e5b86cf1bc8a3c3f00
素数の魔力に囚われた人々 ~リーマン予想・天才たちの150年の闘い~
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/c855d3c8628459df7371c2c53789c794
数学とは何か―アティヤ 科学・数学論集
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b3ce277f0624f0adea8186a0168bcf99
ゲージ理論とトポロジーの年表
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/1050f5ac88c40f83f566ba52c142c565
数学の定理は「発見」か?それとも「発明」か?
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/dde18f50bc52f61699c84ff2f875d490
感想: NHK数学ミステリー白熱教室
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/b0d53d030bf82e8016a1071fadb16063
数学の大統一に挑む:エドワード・フレンケル
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/43ca100e56e15427613b009af55c8f7d
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
ゲージ理論とトポロジーの年表
注意:*付きのものは関係論文の出版年に基づいており、発見されてから数年遅く、順番が逆転している場合もある。
1918年*:ワイル(Weyl): ゲージ変換の発見
192?年:カルタン(Cartan): 接続の概念
1931年*:ド・ラーム(De Rham): ド・ラームの定理
1934年*:モース(Morse): モース理論
1935年*:ホッジ(Hodge): 調和積分論
1946年*:チャーン(Chern): チャーン・ヴェイユ理論
1946年*:ヴェイユ(Weil): ド・ラーム理論に基づく特性類の理論
1952年*:ロホリン(Rochlin): ロホリンの定理
195?年*:トム(Thom)、スメイル(Smale)、ミルナー(Milnor): 微分位相幾何学始まる
1958年*:小平: 複素構造の変形理論
1958年*:スペンサー(Spencer): 現代的なモジュライ理論の創始
1963年*:アティヤ(Atiyah): 楕円型作用素の指数定理
1974年:ヤウ(Yau): カラビ(Calabi)予想解ける(非線形偏微分方程式に基づく微分幾何学の最大の成果)
1978年*:アティヤ、ヒッチン、シンガー: ゲージ理論の数学が本格的に始まる
1978年*:アティヤ、ドリンフェルト(Drinfeld)、ヒッチン、マニン(Mannin): S^4上の自己共役接続を決定
1981年:フリードマン(Freedman): 4次元ポアンカレ予想解ける
1982年*:ウーレンベック(Uhlenbeck): ヤン-ミルズ方程式の除去可能特異点定理
1982年*:タウベス: 多くの4次元多様体上でヤン-ミルズ方程式の解が存在することの証明
1982年:ドナルドソン(Donaldson): ゲージ理論の4次元位相幾何学への最初の応用
1985年:ドナルドソン: ドナルドソン多項式
1985年:キャッソン(Casson): キャッソン不変量
1987年*:ジョーンズ(Jones): 結び目の新しい不変量を作用素環を用いて導入
1987年*:ドナルドソン: 4次元h同境定理の反例
1988年*:ウィッテン(Witten): 位相的場の理論
1989年*:ウィッテン: ジョーンズ不変量をチャーン-サイモンズゲージ理論で解釈
1990年*:タウベス: キャッソン不変量をゲージ理論で解釈
1990年:クロンハイマー(Kronheimer): トム予想とゲージ理論の関係
1993年:クロンハイマー、ミュロフカ(Mrowka): ドナルドソン多項式の構造定理
1994年:サイバーグ(Seiberg): モノポール方程式(サイバーグ-ウィッテン方程式)がヤン-ミルズ方程式と等価であると予言
1995年:タウベス: サイバーグ-ウィッテン不変量と量子コホモロジーの一種(グロモフ-ウィッテン不変量)の等価性を証明