「部分と全体: W.K. ハイゼンベルク」
内容紹介:
本書は量子力学建設期の巨人、W・ハイゼンベルクによる『Der Teil und das Ganze』(1969) の邦訳である。訳はハイゼンベルクのもとで彼と共同研究を行っていた山崎和夫により、序文を湯川秀樹が寄せている。この豪華な顔ぶれが並ぶ本のページをめくってみると、まず内容のおもしろさに引き込まれる。題名からは難解な哲学書を思わせるが、本書はハイゼンベルクの自伝なのである。
圧巻は彼とボーア、アインシュタイン、ゾンマーフェルト、パウリ、ディラック、プランク等巨人たちとの対話である。そこではアインシュタインが「サイコロを振る神」の考え方を受け入れられず執拗に食い下がり同僚にいさめられたり、温厚な人柄で知られるボーアがシュレーディンガーと対決しついにシュレーディンガーが熱で倒れるも、ボーアはベッドの横にイスを持ち込んで議論を続けようとしたりと、そこからは巨人たちの姿を生身の人間として感じることができる。キリスト教の聖書は物語と対話によって神の教えがあらわされているが、本書では物語と対話によって物理学の巨人たちの教えがあらわされている。その言葉には重みがあり本書を開くたびに新たな発見がある。
ハイゼンベルクの着想が、物理学者との対話によって播かれ、育ち、開化する様を克明に伝え、両大戦の狂気や荒廃に満ちたドイツにあって、研究者・教師、人間、一国民として彼がいかに行動してきたかを示す。74年刊の新装版。
1999年11月刊行、403ページ。
著者について:
ヴェルナー・ハイゼンベルク: ウィキペディアの記事
1901年、ドイツのヴェルツブルグに生まれる。ミュンヘン大学でゾンマーフェルトのもと物理学を学び、コペンハーゲンでニールス・ボーア研究所に入り、さらにゲッティンゲン大学でボルンと共同研究を行い、1925年、行列力学として量子力学を創始した。1927年、不確定性原理を発見、同年ライプチヒ大学教授、多体問題の研究から進んで、1928年強磁性の本質を明らかにし、1929年にはパウリと共に場の量子論を発表。相対性量子力学をつくった。1932年、原子核が中性子と陽子からなるという理論を発表。その他、宇宙線理論、超伝導の研究などにも業績を残している。1932年ノーベル物理学賞受賞、1976年没。著書『自然科学的世界像』(1953, 1979)、『量子論の物理的基礎』(1954)、『現代物理学の自然像』(1955)、『原子核の物理』(1957)、『素粒子の統一場理論』(1966)、『現代物理学の思想』(1967)、『科学における伝統』(1977)。
訳者について:
山崎和夫(やまざき かずお)
1927年京都に生まれる。1950年京都大学理学部物理学科卒業。京都大学基礎物理学研究所助手を経て、1957年-1961年、1962年-1968年マックス・プランク物理学研究所に留学し、同研究所所員となり、ハイゼンベルク教授と素粒子の統一場理論の研究を行う。京都大学名誉教授。理学博士。訳書 『オットー・ハーン自伝』(1977)ハイゼンベルク『科学における伝統』(1978)エリザベート・ハイゼンベルク『ハイゼンベルクの追憶』(1984)ほか。
理数系書籍のレビュー記事は本書で317冊目。
量子力学の創始者のひとり、不確定性原理の発見者による自伝だ。本書のドイツ語版が出版されたのは1969年。ハイゼンベルクが68歳のときである。この名著は物理学ファンとしてもっと早いうちに読んだほうがよかったのだが、「美味しいものは後にとっておく」性格なので今さらながら手をつけたわけである。
内容は大きく2つに分けられる。ひとつは物理学者として量子力学にどのように取り組んできたか、もうひとつはドイツでの原爆研究・開発の責任者としての側面だ。後者については先月紹介した「原子爆弾 1938~1950年: ジム・バゴット」で解説されたハイゼンベルクやドイツでの原爆研究・開発のことを読んでいたから、ドイツ側の視点での見え方を知り、比較してみようという試みで読んでみた。
僕は序文を書いた湯川秀樹先生や翻訳をされた山口和夫先生のように、ハイゼンベルク先生のお世話になったことはないので忌憚のない感想を書くことができる。日記がもとになっているのかもしれないが、本書は晩年に書かれた本だ。触れたくないこともあっただろうし、周りの人への配慮から書かなかったこともあったのだと思う。書かれていることはもちろんだが、何が書かれていないか、何をぼかして書いてあるかという点も重要だ。
この記事では次の4つの項目に分けて紹介しよう。
- 物理学への関心、物理学者としての姿
- 戦争や原爆研究・開発のこと
- 戦後のこと
- 「部分と全体」というタイトルについて
物理学への関心、物理学者としての姿
ハイゼンベルクが高校生になる頃には、物理学の世界では原子の中を探求する時代が始まっていた。プランクによって量子仮説が発表され、アインシュタインは相対論だけでなく光量子仮説を発表していた。また後に師となるボーアは1913年に量子条件を提唱し「電子は原子核の周囲を回るときには、特定の軌道しかとることが出来ない」と結論している。
高校生の頃にはハイゼンベルクは才能を開花させていた。教科書にはホックと留め金のついた原子の図が載っていて、分子結合の解説がされていた。これを不自然に思ったハイゼンベルクは同級生と議論を始める。ギリシャ哲学から古典力学まで、論理的な推論を積み重ね、見ることのできない原子の姿を明らかにしようとする。そこには後に不確定性原理の発見へ結びつく着想が芽生えていた。
当時のドイツの青少年は「ヴァンダールング」と呼ばれる長距離ハイキングをしながら文化や科学、芸術などあらゆる分野について議論していたそうだ。ときには2~3日もの間野山を歩くのだ。日本語ではワンデルングで認知されている。ドイツ青少年の野外活動を率先して行おうとする「ワンダーフォーゲル」と言う活動は聞いたことがあると思う。ワンデルングはそれに似ていて野山を歩き回ることだ。
健康的だし健全だと思ったが、なかなか真似できるものではない。真面目な活動だと思う反面、そのような集団活動の中に団結精神や排他性が過度に強調されがちな当時のドイツの危うさを僕は感じた。大人になってからもハイゼンベルクはヴァンダールングをしていてボーアともたびたび議論をしながら野山を歩いていた。
高校を卒業し、ゾンマーフェルトのもとで研究生活が始まる。電子の運動の軌跡は霧箱の実験で確認できていたわけだが、原子の中での電子の軌道というものは存在するのだろうか?一緒に研究していた1歳年上のパウリと議論を闘わせる。量子条件を満たしているとすると電子はひとつの軌道からもうひとつの軌道へと瞬間的にジャンプすることになってしまう。この点をめぐって2人の間で繰り広げられる鋭く、そして建設的な議論はとても生々しい。
ハイゼンベルクは「霧箱における電子軌道の観測」がもたらす存在の問題と「量子力学をめぐる数学」がもたらす存在の問題とを、新しい理論でつなげようとした。これが有名な「ハイゼンベルクの不確定性原理」になった。
そのほか師であるボーアそしてアインシュタイン、ディラック、プランクなど量子力学の創始者たちと繰り広げられる対話・討論が本書の読みどころである。前期量子論から量子力学創成期の貴重な記録だ。他書では「解説」ですまされるところが本書では創始者たちの生々しい会話として再現されている。
25歳のハイゼンベルクが47歳のアインシュタインを説得しようと初めて議論を挑んだのは1926年の春だった。アインシュタインは納得せず翌年10月にブリュッセルで行われる第5回ソルヴェイ会議での歴史的なボーアとの討論(激論、闘論?)に持ち越される。
量子力学を巡るアインシュタインとボーアの戦い、その真の勝者は・・・【山椒読書論(301)】
http://enokidoblog.net/sanshou/2013/11/9927
特にボーアは生涯を通じてハイゼンベルクとの関わりが深かった。量子力学をめぐる対話だけでなく、親しい友人として家族同然の付き合いをしており、レジャーや旅行を通じて親交を深めている。その後、第二次世界大戦が二人の関係を引き裂いたことは「原子爆弾 1938~1950年: ジム・バゴット」に詳しく書かれていて悲痛に思っていたが、本書ではそのことにほとんど触れられていなかった。
「原子の安定性」といえばボーアの量子条件が思い当るが、ボーアとハイゼンベルクの対話の中でボーアが主張していたのは「化学反応の安定性」だった。同じ条件で化学反応は全く同じ結果になる。これは原子が安定していることを意味するのだと僕は気づかされた。
行列力学や不確定性原理を発見したときのことは、比較的詳しく書かれている。しかしノーベル賞受賞のことは書かれていのが物足りなかった。また不確定性原理以外にもハイゼンベルクは強磁性、場の量子論、原子核が中性子と陽子からなるという理論を発表、S行列の理論、宇宙線理論、超伝導の研究など、さまざまな功績をしているのだが、これらについての記述も本書には書かれていない。項目だけなら記述可能だが、詳しく書こうとすると本書のレベルをはるかに超えるし、分量的にも無理があるということなのだろう。
戦争や原爆研究・開発のこと
ドイツは第一次世界大戦での敗戦国である。この戦争はハイゼンベルクの少年期にあたり父親が従軍している。戦後の経済の疲弊が、その後ヒトラー政権を誕生させる温床になっていく。
21歳のハイゼンベルクと38歳のボーアの間で交わされた戦争についての対話が印象的だった。デンマーク人のボーアがドイツの脅威に対して感じているヨーロッパ諸国の感情を説くのに対し、ドイツの立て直しに希望をもつ若き日のハイゼンベルクはボーアの懸念が杞憂であると説明する。一部には過激な人種差別をするグループがあるが、全体的にはそのような過激分子を嫌い、排除されていくだろうという楽観的な考えを述べる。
その後、ヒトラーが勢力を拡大し政権を握るに至ることを彼は予想していなかった。ヒトラーに対しては一貫して反対の考えをもっているハイゼンベルクであるが、当時のドイツでそのような自由が認められるはずはない。国内外のユダヤ系市民の排斥が虐殺にエスカレートしていく中で、多くの同僚が国外へ脱出していった。しかし本書ではナチスによる大量虐殺についての具体的な記述はない。
ドイツ国内に留まるか、それとも脱出するかという判断をハイゼンベルクも迫られることになる。彼は大いに悩んだわけだが結局留まることを決意する。それは戦争が長く続くものではないと予想し、戦後のドイツの未来に貢献したいという思い、そのために若い物理学者を育てたいという思いからだった。
原子核の分裂がすでに発見されていたが、それが連鎖反応できると物理学者たちは考えていなかったため、原子爆弾は不可能だと思われていた。戦後のドイツの発展のために原子力の平和利用を目的として研究を進めていたと書かれている。この点について僕は言い訳がましいと少し思った。
ほどなくハイゼンベルクはドイツの原爆研究・開発の責任者に任命される。当時のドイツでヒトラーの命令を断ることは死を意味する。ヒトラー自身、原爆の研究や開発には時間がかかり、この戦争には間に合わないと思っていたのと、ハイゼンベルクもその点は同じだったので、結局ドイツでは原子炉の実験にすら至らず戦争が終わった。
しかし、問題は1941年10月に行われたハイゼンベルクとボーアの対話である。戦時下にあって敵国であるアメリカに渡るのは異例中の異例のことだ。この再会によってドイツが原爆を開発中であるとボーアが確信し、アメリカの原爆開発が急ピッチで行われることになる。本書でハイゼンベルクは「ボーアは私の言ったことを誤解し、ショックを受けてしまったので、戦後のドイツの発展に貢献しようとする私の希望について耳を貸さなくなってしまった。」と自分のせいではないような書きかたをしている。
しかし「原子爆弾 1938~1950年: ジム・バゴット」では、ボーアも含め周囲の物理学者に対するハイゼンベルクの態度が尊大でドイツの脅威をますます印象づけ、さらにハイゼンベルクは原子炉の設計図らしき紙をボーアに見せたので、ボーアはドイツの原爆開発を確信するようになったと書かれている。周囲にはドイツ本国から送られたスパイが監視していたかもしれず、ハイゼンベルクは自国に不利になる発言をしたり態度を見せることができなかったのかもしれないが、このハイゼンベルクのボーア訪問は明らかに失敗で、アメリカの原爆開発を加速させ、広島・長崎への原爆投下の遠因になったと僕は思う。
アメリカが原爆の製造を終え、広島・長崎への原爆が投下されたことをハイゼンベルクが知ったのは、戦後彼が他のドイツ人物理学者と一緒にイギリスで抑留されていたときである。多くの一般市民が犠牲になったことに触れられていたものの、その悲惨さについての強調はなされておらず、あっさりと書かれていたに過ぎない。
確かにドイツは敗戦国で原爆を落とした当事者ではないから仕方がないことだが、ヒトラー政権の誕生とナチス勢力拡大を許してしまったことに対する責任については書かれていなかった。全体を通じて釈明や言い訳ともとれる記述はあるものの、後悔や懺悔のようなことは本書には一切書かれていない。自虐的歴史観をもたないのが普通なのかもしれないが、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の残忍さを思うとき、何らかの言及をしておくべきだと思った。そのあたりの無頓着さが1941年10月のボーア訪問の際に受けた誤解と共通していると思った。
科学者として原爆への責任があったかという点について、ハイゼンベルクは「発見」には責任がなく「発明」には責任があると考えを述べている。つまり核分裂を発見した時点では、それがどのように利用されるかは全く予想ができないから責任はないということだ。そして彼は原子炉の完成間近までしか進んでおらず、それは平和利用を目的とするものだという言い訳を匂わせている。
僕は「発見」については責任を問うべきではないと思うが、原爆の発明、実験、製造、投下の決定、投下の実行についてはそれぞれ重大な責任が伴うと考えている。
あと本書には戦後の原爆、水爆の開発と実験、核の拡散、核による抑止力、核軍縮への取り組みなどについては一切触れられていない。原子力研究、開発の責任者だったにしてはいかがなものかと思った。戦後、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」の11名の連名者の中にハイゼンベルクの名前はない。
ちなみに1948年にドイツは東西に分断され、西ドイツでは第二次世界大戦以後原子炉とウラン濃縮の研究が禁止されていた。しかし1955年のパリ協定によって、核兵器を製造しないという約束と引き換えに禁止措置が正式に撤回され原子力発電開発が始まった。
ドイツの原子力発電開発
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=14-05-03-03
戦後のこと
気になるボーアとの関係だが、戦後は物理学者どうしとしての交流を再開している。戦争によって負った傷跡をお互いがどのように思っていたかは書かれていないので知る由もないが、個人としての反感があったわけではないので、生涯の友として付き合っていけたのだろうと僕は思う。
イギリス抑留の後、ハイゼンベルクはドイツに戻り、国内の物理学者を率いて国の再建に心血を注ぐことになる。量子力学は統一場の理論を目指して進展を続けている。繰り込み理論、量子電磁力学へと研究が進み1954年にはヤン=ミルズ理論が提唱される。
パウリとともにハイゼンベルクは戦後も第一線の研究者として物理学の発展に貢献している。本書を訳された山崎和夫先生がハイゼンベルクに師事しながら研究をしていたのは1957年-1961年、1962年-1968年のことである。
特集:不確定性原理の今
ハイゼンベルク先生と統一理論に挑んだ10年
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0704/heisenberg2.html
「部分と全体」というタイトルについて
「部分と全体」というタイトルの意味だが、訳者あとがきには次のように書かれている。
- ナチズムという誤った部分的秩序の枠内にいる限り、若者の素晴らしい善意も行動も、何一つ人類全体の幸福には結びつかない。
- ハイゼンベルクは部分としての数学をていねいに行うことをゾンマーフェルトから学び、全体を哲学的に考えることをボーアから学んだ。
- 物理学のためには細かいひとつひとつの部分に全力を尽くしながら、常に全体の見通しを持って進まなければならない。
でも僕としてはストレートに次のように解釈したい。いかがだろうか?
- 部分としてのミクロな量子力学の世界が、全体として古典力学に従うマクロな世界をかたち作る。
関連書籍:
原爆の側面からは次の本をお読みになるとよい。
「原子爆弾 1938~1950年―いかに物理学者たちは、世界を残虐と恐怖へ導いていったか?:ジム・バゴット」(紹介記事)
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量子力学の創成期の観点からは次のような本をお勧めする。
「量子革命―アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突:マンジット・クマール」
「そして世界に不確定性がもたらされた―ハイゼンベルクの物理学革命:デイヴィッド・リンドリー」
「ハイゼンベルクの顕微鏡~不確定性原理は超えられるか:石井茂」(紹介記事)
「シュレーディンガーと量子革命 天才物理学者の生涯:ジョン・グリビン」
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とね日記は長年放置されている科学ブログランキングの不正クリックに対し、次のランキングサイトには適切な運営を期待します。
「人気ブログランキング(科学)」、「人気ブログランキング(物理学)」、「FC2自然科学ブログランキング」:不正の例1 例2 例3(クリックしてからTwitterアプリで開くと画像は鮮明に見れます。)
(不正クリックブログの見分け方)
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「部分と全体: W.K. ハイゼンベルク」
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巻頭写真集
序文(湯川秀樹)
序(ハイゼンベルク)
原子学説との最初の出会い(1919‐1920年)
物理学研究への決定(1920年)
現代物理学における“理解する”という概念(1920‐1922年)
政治と歴史についての教訓(1922‐1924年)
量子力学およびアインシュタインとの対話(1925‐1926年)
新世界への出発(1926‐1927年)
自然科学と宗教の関係についての最初の対話(1927年)
原子物理学と実用主義的な思考方法(1929年)
生物学、物理学および化学の間の関係についての対話(1930‐1932年)
量子力学とカント哲学(1930‐1932年)
言葉についての討論(1933年)
革命と大学生活(1933年)
原子技術の可能性と素粒子についての討論(1935 - 1937年)
政治的破局における個人の行動(1937年 - 1941年)
新しい門出への道(1941 - 1945年)
研究者の責任について(1945 - 1950年)
実証主義、形而上学、宗教(1952年)
政治と科学における論争(1956年)
統一場の理論(1957 - 1958年)
素粒子とプラトン哲学(1961 - 1965年)
訳者あとがき